朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり
2015年10月22日、全5回の伊與田塾「百歳の論語」(致知出版社主催)の最終講義が品川プリンスホテルで行われた。その講義で一番心に残った言葉が上記である。
「朝に道を聞けば」とは「天命を悟ること」である。「夕べに死すとも可なり」の境地は、死線を越える苦労をした人しか分からない。いくら万巻の書を読んでも、悟りに境地には至らない。理屈で考える学者には分からない。理屈で考える人は、道を聞いても死んでは意味がないと考える。だからいくら学問を積み重ねても、この境地には達しない。芸術でも職人の世界でも、同じである。単にルーチンワークで年月を重ねるだけでは、この境地に達しない。
1400年前に造った五重塔は台風が来てもびくともしない。それは天命を知った職人が造った塔であるからだ。ところが、最新技術を駆使したはずの高層マンションが、傾く不祥事が頻発している。何で後から直ぐ露見するごまかしをするのか。これは技術の問題ではない。効率、売上至上主義に走り、道から外れた仕事をした結果である。
道と術
論語に曰く「吾十有五而志干学三十而立四十而不惑五十而天命」。この言葉は単に年齢を重ねれば悟れることを言ってはいない。死線を越えるような無限の苦労の後に閃きがあり、天命を知ることになる、である。
単に経験の積み重ねるやり方だけだと「術」に終始する。あくまで「道」に達しないと、本物にはなりえない。柔道、書道、茶道、華道等の全てに当てはまる。
最近、芸術の字とかで、読めない毛筆の字が、テレビ番組の題名や展覧会での書展で、氾濫している。字は読めてこそ存在がある。それを感性で書いたから、読めなくても良いでは、「道」から外れる。それは「書芸」、「書術」であり、「書道」ではない。「芸」とは草冠に「云」である。意味は匂い草のことで、特定に人には良い匂いの意味である。時代が変わり、人が変わるとそれが良い匂いだとは限らない。
「術」とは小手先のノウハウである。それではその道の本質には達しない。書道について言えば、あくまでも「何時でもどこでも誰にでも分かる字」を書くのが書の「道」である。これは全ての諸芸や、仕事道、生きる道に通じることだ。「道仙」という名に思い馳せると、今回の伊與田先生に言葉が重みを感じる。
伊與田覺先生の生き様
伊與田覺先生は現在100歳(2015年10月)で、体調は決して良好ではない。腎臓は1つを摘出、残った腎臓も20%しか働いていないという。右目は加齢黄斑変性症でほとんど見えない。幸いに左目は小さい字でも読める視力である。心臓がかなり悪い。先生自身でも生きているのが不思議だと言う。移動は車椅子である。そんな体で、月に1回、3時間の論語の講義を半年に亘り、5回続けられて、この10月22日に最終講義となった。
天命
そんな先生の天命が、論語を世に伝える仕事である。10歳から論語を読みだし、この92年間、毎日論語を読んでいるという。先生に言わせると生かされている人生であるという。「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」を実感するという。
天命に生きる道は、なによりも健康が最優先である。自分の健康を支える周りの人への感謝の念が、自分の体を生かさせてくれる。ご先祖と両親、回りの人への感謝を忘れたとき、その人のお役目が終ったとき、天は命を取り上げるようだ。例えタイムラグがあっても、である。自分の天命は何か、それを考えたい。それが第二の人生の課題である。
その伊與田覺先生も、2016年11月25日に逝去された。ご冥福をお祈りいたします。
図1 恵峰書「迷って百年、悟って一日」の言葉に惚れて入手
図2 恵峰書「あせって」の「せ」の字に魅了されて入手
図3 記念撮影の伊與田覺先生 2015年10月22日
図3 手を振って元気に退場される伊與田覺先生
後ろで介助者が手を握って支えている
品川プリンスホテル 2015年10月22日
図4 恵峰先生よりの贈り物
2017-10-14
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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