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2017年9月23日 (土)

人となれ、人となせ人

 今の自分が嫌で、新しい自分に変わりたいと言う人は多い。しかし変われる人は少ない。それは何故そんな自分のなってしまったかの原因を突き止めずして、小手先の手段で変わろうとするから、変われないのだ。人は生まれてから1日20回の決断をして、6歳までに43,800回の決断を繰り返し、人としての思考回路が育つ。6歳までに脳の80%が完成する。そんな強固な訓練をして固まった脳(固定観念)を変えるのは至難の業である。

 

人を磨くのは人

 人は、ダイヤモンドのような素質を持っている。それを磨くのは、人でしかできない。人は、人からもまれて、叩かれて、笑われて、罵倒されてこそ、磨かれて己が持つダイヤモンドに変身する。人は、一人では人になれない。艱難辛苦が人を輝ける人にする。読書が人を育てるように、世間という書物を読み体験することで、人を人にする。

 

角熟を目指す

 人は、神佛を目指してはならない。あくまで人として人になるべきである。神佛は「人ではない」。人が完全無欠の神佛を目指すと、「人でなし」となってしまう。欲を持ち、人としての欠点もあってこそ人である。生きるという欲まで捨てたら、人でなくなる。指導者として欲を持つなら、人格を高める欲を持つことだ。人として人格を極めれば、神仏にはない欠点が人間味となる。円熟ではなく、角張った欠点を抱えたまま長所を伸ばして熟する(角熟)のが人の道である。

 

人として死にたい

 人は、食欲・物欲・性欲だけを求める生き方をすれば、畜生界の存在になり下がる。人なれば、目の前にぶら下げられた餌を自制すべし。今はあまりに美味しすぎる餌が溢れている。自制心をなくしたら、人ではなくなる。グルーバル経済主義の化け物に取りつかれた輩は、死ぬまでに使い切れない財を独り占めにして、99%の他人の生き血を吸って繁殖し、最後は死病に倒れる。いくら財を貪っても、生物である以上は死からは逃れられない。

 人は寝て一畳、立って半畳、食べて一升、死んで残るは灰塚一握である。強欲に走るから、不幸になる。利他少欲であれば幸せである。強欲に取りつかれた死鬼衆としてではなく、人に成長して、人として死にたい。

 

2017-09-23

久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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