閻魔大王に閻魔帳を突きつけられて…
閻魔大王の閻魔帳には、己の日々の善悪の所業が記録されている。その閻魔帳とは、己の体そのものであることに、目の病気を患ってから初めて気がついた。人が自分の死を意識するのは、病気をして各器官にも寿命のあることを思い知り、終りを意識せずに登ってきた未来への道が、登りきった坂の上の曲がり角で陥没しているのを発見したときなのだ。その時になって初めて、後ろからヒタヒタと迫り来る死を明確に認識する。
四季は、なお、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前より来らず、かねて後ろに迫れり。人みな死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来たる。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
(吉田兼行『徒然草』第155段 1331年)
あそこまで登れば新しい道が見えると登ってきた道に、いつしか夕日が迫る。夕日が己の姿を照らし、その陰が長く地表に延びる。
あの世のトヨタ生産方式
人は還暦を過ぎるとあの世ではなく、この世で閻魔様より閻魔帳を見せ付けられる。昔は死んでから閻魔様に前に行って、閻魔帳に記録された前世の善悪の所業を審判された。しかし、人の寿命が昔の40年から80年に延びたので、閻魔様もあの世では暇になって、閻魔様が、負荷の平準化のためトヨタ生産方式を導入して、現代人に因果応報を生前に知らしめている。閻魔様も不届きものが増えて、その審判の忙しさで過労死寸前なのだ。なにせ1975年には206,702人だった癌患者が、2012年には865,238人(厚生省データ)と急増なのだ。その忙しさ解消のため、健康に関する審判を現世ですることになった。ご先祖から預かった体を虐めると病気になるのは、自然の理である。病気とは己の体への悪業の積分の結果である。己の体を正しく維持管理しなかった証である。それを「運が悪い」とか、「なんで私だけが」と言うのは、お門違いである。全てのことには原因がある。それを仏教では因果応報という。それに早く気が付いた人が、閻魔様より長寿というビザ有効期限延長書がもらえる。その分、閻魔様の負荷が減る。たまには閻魔様の身になって考えよう。
この世の地獄
昔は老衰が自然な死亡の原因であった。人は寿命として納得して死んでいった。時代が変わり、人は贅沢になり、贅沢が原因で様々な病気を発症する。医療技術が進歩しているが故、金を積み名医にかかれば病気は治ると思い込む。しかし、それが拒絶されると「お前はヤブ医者か」と正直に病状を話す医師を罵倒する。藁にすがった己の愚かさを悟り苦しみ死んでいく。これは地獄である。それは、生あるものは必ず死を迎える、という真理を考えないで生きてきた証である。
己の道
古代中国の各都市は城壁で囲まれていた。その外側は魑魅魍魎(ちみもうりょう=山の怪物や川の怪物)が住む恐しい場所と信じられていた。城壁の外に出て、その恐ろしい場所を通って他の都市に行くときは、異教徒を殺し、魔よけとしてその生首をぶら下げて歩いたという。その歩いた所が道となった。それが道の語源である。道の「しんにゅう」は十字路を意味する。
未来を拓く道
現代で、全く新しい分野の道に進むには、自分の首をかけて未開の地に道を創る意気込みが必要である。何時の時代も、新しい道には夢がある。夢は命をかけてこそ実現できる。時として足元は、己を含めた多くに先人の失敗で血の海である。死屍累々の中をひたすら前進して道を創る。なにもしないでいれば、座して死ぬだけである。己の失敗という生首が、後進の道しるべとなる。それも人生、人生に無駄はない。一人の成功の足元には先輩の尊い失敗がある。自分はその失敗を避けて、可能性のある新しい道を進む。先人に感謝をして進むべし。
図1 馬場恵峰書(2013年入手)
2017-09-23
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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