「桜田門外ノ変」の検証 (18/28)
井伊直弼公の寵愛を受けた「志津」
2015年6月15日、井伊直弼公が大垣宿を経由して江戸に上ったことを、井伊直弼公の伝記や小説で調べ始めた時に、舟橋聖一著『花の生涯』で志津の名に目が留まった。志津は、井伊直弼公が15年間の部屋住み生活を埋木舎で過ごしたとき、お世話をした女中で、直弼公の寵愛を最初に受けた女性である。早世ではあったが女児も生んでいる。
その「志津」の名と、私の祖母の名が「志ヅ」と同じなのに気がつき、愕然とした。この小説『花の生涯』を20年前に読み、その名を目にしていて気がつかなかったご縁である。情けないが、あれども見えずとはこのことである。
松居石材商店の松居店主の話では、彦根では名字に「井」を使うのが畏れ多いので、「松井」ではなく、「松居」としているとか。志津も「津」を使うのに気を使ったのかもしれない。
志津
器量よしの志津は藩の足軽秋山勘七の娘で、16歳のとき埋木舎へ上がって家婢となり、その後、直弼の寵愛を受ける身となった。井伊家の慣わしで、足軽の娘では、妻どころか妾にもなれないので、誰か名のある藩士の養女にしてもらって、せめて側室の地位を望みたいと父は焦慮したという。
その後、志津は直弼を取り巻く女性、村上たか女との葛藤の中でノイローゼのようになり身を引く。その後を理和が直弼の身の回りの世話をすることになる。
祖母、志ヅ
祖母はとても美人であった。街を歩くとき、男が寄ってこないように頭巾で顔を隠してあるいたとか言われている。祖父小田成健と結婚して、祖父が43歳の若さで傷害事件のために亡くなったので、6人の子供を抱えて、その後が苦労の連続であったようだ。努力家で能力が卓越していた小田成健は、42歳で大津警察署長に昇格したのを妬まれ二人の小官吏に襲われてそれが原因で、43歳の若さで亡くなった。その履歴が、44歳で桜田門外に散った井伊直弼公と重なる。夫の早すぎる死の後、不幸な人生を歩んだ祖母志ヅと志津とが重って見えた。
志ヅは道仙の孫で、志ヅの父は道仙の子の文三であるから、文三は井伊直弼公の寵愛を受けた志津の存在は知っていて、あえて名づけたと思われる。そうでないと、この珍しい名前は付けまい。同じ名では差しさわりがあるので、「津」を「ヅ」に変えたようだ。文三は志津の1世代後の人だから、狭い彦根では志津とも面識があったのだろう。重次郎は芸の関係で埋木舎に出入りをしていて志津を良く知っていたのかもしれない。
祖母もそれを知ってか知らずか、戸籍上での名は「志ヅ」であるが、通常は「志づ」で通していたようだ。当然、両親から名前の由来は聞いていたであろう。だからか手紙や文書では「志ヅ」が出てこない。その理由がやっと分かった。興味深いのは、昭和24年の行政からの領収書の名前に「小田志津」の宛名が見つかったこと。
図1 埋木舎 正門
図2 埋木舎 玄関
図3 長野主膳と井伊直弼公 埋木舎
図4 志津と里和 埋木舎
図5 埋木舎 庭より屋敷を見る
図6 埋木舎 客間
図7 埋木舎 座禅の間
2017-09-04
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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