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2017年6月18日 (日)

命をケチる

 戸田極子伯爵夫人は、岩倉具視の三女である。その岩倉具視の件の調査の関係で、2016年9月20日頃、東北の知人に電話をしたら、彼の27歳のご子息が自殺をされたという。そのためとても、聞きたいことも聞けなかった。これも戸田伯爵夫人の調査がなければ接せることのなかった事件である。自殺という重たいテーマのご縁をいただいた。

 

 人は一人では生きてはいけない。今の生まれた命や支えて頂いている多くの人たちのことを思えば、自殺はありえない。自分一人で、自力で生きていると思い詰めるから自殺になってしまう。先祖、親、師、隣人、友人の恩があって生きていると悟れば、自殺はありえない。絶望の時、相談する師がいないと、路頭に迷う。所詮、人間界で起きた事象は、人間界で解決できる。思い詰めるとあの世に行っても解決はできない。家族や師との会話があれば、自殺は防げるはず。家族、師とのコミュニケーションを大事にしたい。

 

 1973年4月1日、私の入社日の夜、同級生が自殺をした。クラスで成績2番の秀才である。夜の就寝前に電気コードを体に巻き、タイマーをかけての自殺である。原因は不明だが、44年経った今でも、頭の隅から消えない事件である。

 

 1988年4月2日、知人の父親が鉄道飛び込み自殺をした。当日は一人息子の入社日である。それが遠因で息子の人生が暗転した。しばらくして、彼は会社を辞め、その後も数回の転職を繰り返すことになった。なにも息子の入社日に自殺をしなくてもとは思うが、本人はそれさえ考えが及ばないほど追い詰められていたのだろう。その為だと思うが、彼の孫は3人とも日本の最高学府を卒業しながら、10年間も就職浪人である。なにか考えさせられる。

 

 2000年頃、私は地獄の研修を受け、臨死体験までさせられた。自分の死にゆく姿を見て涙を流した後、その研修講師K氏から自殺未遂の話を聞かされた。K氏は元会社経営の社長で、会社経営に行き詰まり、絶望して車ごと崖から飛び降りるつもりでアクセルを目一杯踏んだ。その時、家族の顔を浮かび、崖の直前でブレーキを踏んだという。自分を支えてくれている家族が、自殺を引き留めてくれた。

 

 私も思詰めて、自殺まで考えていた時期がある。師と仰ぐ人に相談に行っても、その師が「忙しい」とかの言い訳で逃げられると、百年の恋にも似た師への尊敬の念が雲散する。何時でも何処でも相談に乗ってくれるのが、真の師である。それは現世の人とは限らない。本の中にも真の師は存在する。私は師と崇めていたT氏の本質が露見してから、その人は単なる人生の水先案内人であると悟り、距離を置いた。 

 

 自分を支える一番の御恩ある御本尊が自分の体である。その命が短くなるのが分かっていて何故、不摂生、煙草、暴飲暴食に走るのか。己の体を痛めつける生活習慣、食生活(飽食)は緩慢なる自殺である。過労死も、仕事と命を天秤かけて値踏みをして、仕事の方が大事とした判断の結果である。過労死をして誰が喜ぶのか。仕事とは、人に喜ばれてナンボである。命を粗末にする人を、計値(ケチ)という

 計値(ケチ)とは、命と快楽・仕事を天秤にかけ、値踏みをする愚行である。食欲の快楽に身を委ねる情けなさ。その仕事をしてくれる人は他にもいる。世の為になる仕事は、皆で行ずればよい。仕事を自分一人でやろうとするから、無理が出る。偉大な仕事は、多くの人が協力して成し遂げられる。人を悲しませては、その仕事に傷がつく。己の命の代わりはない。多くの御恩に支えられて、自分が生かされている。自力ではない。

 

 ケチとは己の狭い視野で値踏みをすること。ケチな人は目先に囚われて、短絡的・短期的な視野でしかものが見えないので、10年後に損をする判断をする。佛様の差配は人智を超える。回り道にお宝が埋まっている。佛様も元は人の子、陰徳を積めば佛様も恩義を感じて、10年後に利子をつけて倍返しの報恩をされる。

 ケチの究極の姿が、植民地獲得の侵略戦争、民族虐殺、利己主義、成果主義、グローバル経済主義である。一時的には儲かったように見えるが、結末は妬みの文化の氾濫、冨の偏在、格差の拡大、移民問題・テロ問題(植民地政策時代の落し前)、1%の人だけが富み、99%が不幸になる社会への転落である。

 

 人は、ものが見えているようで、実際はその本質の10%しか見えていない。残りの90%は人智を超えたベールに覆われている。人は狭い視野でものを見て、全て分かったと自己満足の値踏みをしている。それがケチの根性である。

 人は実態の10%しか見えないのに、あたかも全て分かっているかのような顔をして、経済学者は学問の竹光を振り回す。もしそれが正しいのなら、経済学者は全て大富豪や成功者になれるはず。学者とは、単なる知識を切り売りする者である。学者は、本質を凡人にわざと難しい表現をして煙に巻く。得た知識から知恵を生み出す人が、智者で人生で儲ける人だ。得た知識を死蔵するだけでは、情報センタの門番でしかない。知識を実社会で、知恵に変換して活用してこそ、付加価値が生み出せる。

 

先に生まれた人から浄土へ逝く。何も焦って追い越さなくとも、お迎えは来てくれる。人生道では追い越し禁止である。頂いた命をお大事に。生きるとは祈りである。

 

図1 生きる 2016年9月27日 馬場恵峰師揮毫

 

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