食は信仰心で、 典座赴食修行、人生山三万日回峰行
料理する、食べるとは信仰心
食べること、食事を作ることは人生の一番大事な修行である。それが人生という山を回峰する修行である。比叡山、大峰山で行われる千日回峰行では、その修行期間は千日だが、食の人生回峰行は3万日の一生の修行である。一生では約10万回の神仏に対する神事仏事である。それが満足にできなければ、まともな人生を歩めない。
食べるとは、ご先祖から授かった命を維持、成長、命の継続をさせるための仏事、神事である。その食を餓鬼の食欲で貪るから堕落した性格になり、病気になる。結果として道を外れた人生となり、人生の敗残者となる。食は信仰・感謝で行うべき修行である。
食の目的
食の目的を考えて、食べる意味を知れば、人生の道が新たになる。自分の命は、1億円の宝くじが連続で百万回当たる確率で生まれてきた。その命を育て成長させてくれるのが食である。その食の多くは、他の命を頂いている。その命のご恩に報いるように生きると思えば、食は信仰であることは明白だ。
それなのに、現代のテレビ界の食に対する扱いは、生命への冒涜である。そこに日本の没落、衰退の原因がある。それを正せば、病気から遠ざかり、豊かになり、長生きできる。
食材の価値
金を払って食を得たのだから、どう食べようと自由だというのは、大いなる勘違いである。そういう人に限って、出された食材を汚く食べ散らし、食い残す。
食は天地自然の恵みがないと食は人間の手に入らない。また、その食を食べる形にするために、どれだけの多くの人の手がかかっているかを考えたい。金を出しても食材が手に入らない時代もあったのだ。それを思うと、食への感謝が起きる。
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食べられる有難さ
私はがんを患い、術後、今まで通りに食べられなくなった。多く食べると吐いてしまう。それが原因で、体重は30キロも減った。体力がなくなり、体がガタガタになってきた。普通の食べて消化できる有難さを、「食べる能力」を失って初めておもい知らされた。
だから食は神事仏事として、命を提供してくれた他の生き物に感謝して食するべきなのだ、と術後にやっと悟れた。頭でわかっていても、痛い目の実経験をしないと知ったことにはならない。それを格物致知という。
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食材の作法
禅宗では、「五観の偈」で食事への心構えを説く。
「五観の偈」
一、功の多少を計り彼の来処を量る。
二、己が徳行の全欠を忖って供に応ず。
三、心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。
四、正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり。
五、成道の為の故に今この食を受く。
『典座教訓』、『赴粥飯法』の教え
道元禅師は、食に関する多くの教えを示され、調理係の心得と意義を説き示した『典座教訓』、食事をいただく作法と意義を示した『赴粥飯法』は、「作る修行」と「食べる修行」の尊さを教えている。
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2025-02-15 久志能幾研究所通信 2996号 小田泰仙
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