長良川賛歌 愛の動態風景画 青木年広個展 in Sagan
青木年広氏の個展が岐阜川原町Gallery Saganで開催されている
期間 7月6日~7月29日(水、木:定休日)
「長良川の川風」と青木さん
青木さんの絵は、動態風景画と言える。現場で、実際の風景を見ながら描くことを、ライフワークとして取り組んでいる。その絵から川風の息遣い、清流の緩急の変化、作者の自然への思い、自然への愛が伝わってくる。
水の流れは刻一刻と変わっており、青木さんの絵には、その変化まで描きこむ趣がある。それは青木さんが、100号ちかい大きなキャンパスを川岸に持ち込み、そこで直接描くからだ。時には川辺の足場の悪い場所もあり、命がけで絵を描く時もある。
多くの画家は、現場でラフのスケッチをするか、写真を撮って、それを自宅のアトリエで詳細に描いている。
しかし青木さんは、現場主義で、そこにキャンパスを持ち込んで描いていく。だから躍動感あふれる絵ができる。私はそれを聞いて、「動態風景画」と表現した。
この100号近いキャンパスを現場に持ち込み、描いたと言う
青木さんの製作風景 『青木年広作品集+プラス』より
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「長良川の川風」
この絵には、作者の物語と願いと愛が籠っている。雑然と雑草や小ぶりの木が生えた川辺の草原は、多くの生物を養っている。その樹木が小さなウグイスの姿を隠し、草木がウグイスをトンビ等の天敵から守っている。近年、川辺が開発され、その防御機能がはく奪されつつある。自然を壊すとは、人間の生存域も少しずつ破壊している。
作者は、絵の三角形の部分に物語を創作した。奥の赤い棒は、国土交通省が設置した測量基準の棒である。右手前の棒は、その測量用の補助の木である。左側の黄色い棒は、架空の棒である。それで、それより先は、人間の進入禁止の願いを表現した。それが「架空の世界」である。青木さんが、長良川の自然を守りたいという思いを物語にして、それが絵になった。
その先に愛すべき長良川が流れている。その先は金華山の山肌である。
川原に茂るススキの穂先は、まるでそよ風が吹いて、その息遣いが感じられるかのような描写で、まさに「動態風景画」である。
「長良川の川風」部分
3つの杭が三角形の世界を創っている。黄色の杭は仮想の存在である。
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「流れ込む・花の頃」
この絵は、関市洞戸の板取り川の水の流れを表現した。水の流れは刻一刻と変化して、一定ではない。それをじっと観察して、川底の岩にぶつかる水の流れを、透明感、川底の色変化、そういった全ての変化を画面に表現する。写真だけでは表現できない世界である。現場でそれの変化を見ながらでしか表現できない。現地現物の世界である。私はこの絵を見て、『方丈記』を思い浮かべた。
そこに人生を感じた。透明感ある流れは、浅瀬の流れである。濃い色の流れは、深い場所の水の流れである。透明な風景は浅い人生だ。深い人生は、濃い色合いの人生の水が深い位置で静かに流れている。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」鴨長明『方丈記』
馬場恵峰書『百尺巻頭書作選集』より 久志能幾研究所刊
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私の住む大垣は、水の都として水都と呼ばれている。市民は揖斐川、水門川と水を愛し、水と共に生きて来た町である。同じように岐阜市民も長良川を愛し、長良川と共に生きて来た町である。中部地方は、木曽川、長良川、揖斐川が流れ、その恩恵で生きて来た。そして繁栄をしてきた。ここの住民は街を流れる川を愛してきた。その心境には相通じるものがある。
氏は、岐阜加納高校で山路徹先生から学んだという。岐阜加納高校は、県下で唯一、音楽と部美術の専門学科があり、日常的に芸術を肌で感じられるという。
私と山路徹先生とは、12年前からのご縁であり、不思議な思いである。
2024-07-21 久志能幾研究所通信 2885号 小田泰仙
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