地獄から見える信用できない人、地獄で佛に出会う
私は5年前にガンを患い、余命宣告され、地獄に堕ちた境地になった。生死をさ迷い、棺桶に片足を入れて、娑婆の世界を達観できる心境になると、人の機微やその人の本質が良く見えるようになる。
山を出なければ、山の全体が見えない。それと同じで、自分を死んだものとして人生を客観的に突き放すと、自分の回りに蠢く人間の本質が良く見える。
例1 口先だけ
人ががんになり、手術後の後遺症で長年苦しんでいるのに、「今度、見舞いに行くね」と言って、全く見舞いに来ない人が数名いた。その中でも「見舞に行かなくてごめんね」と何度も繰り返して、それでいてその都度、別の用事を電話で頼んでくる輩がいた。
その人が久しぶりに電話をしてきたと思ったら、その目的は、いつもと同じでチケットを売るためであった。その人は金儲けだけが目的で、人の病気など知ったことではないのだ。見舞いに来る気はさらさらない。芸術に関係の仕事をしているのに、人の心の機微も分からず、人として常識がない。そんな人と付き合ったら、良心が殺される。
血は争えないもので、その人の息子は音楽家であるが、同じく常識がない。私の師もその行動に呆れていた。人間観察の勉強になった。
子供を観れば親が分かる。それはテレビ上では良妻賢母の役を演じていて、家庭内教育は最悪であった女優三田圭子の例である。その息子は薬物事件を何度も繰り返した。また皇室A家の娘が、国民に後ろ足で泥をかけるが如くのNYとんずらした事件例もある。そういう事例を観れば本件がよくわかる。子供は親の背中を見て育つ。
例2 心と体が連携していない
人ががんで入院して苦しんでいる時、電話がかかってきて、その人は「ガンななられたと聞いて驚いています」と言う。その御仁は、私が彼の住まいから直ぐ近くの病院に入院しているのに、足を動かさず、電話だけですませた。その芸術家は、感動や人の悲しみに心を動かしても、行動に移せない人であることが判明した。芸術家として心が動き、体が動いて、行動に移せない人には真の感性がない。頭で理解して理動ということはない。心で感じて感動すれば、行動が伴う。行動に出なければ、いくら口先で美辞麗句を並べても虚しい。今まで応援していた音楽家ではあったが、大成しない冷たい芸術家だと判断して、縁を切った。
例3 世間知らず
その御仁は、「俺が君を後任に選んだのだ」と偉そうに私に言う。現実は皆に断られて、万策尽きて最後に私の処に来ただけだ。私ががんになり、後遺症でいまだに苦しんでいるのに、この5年、一度も訪問もなし、見舞いにも来ない。口先だけで、自分では動かない。世間知らずであった。やはり元校長や元警察署長や天下り人間は世間知らずである。
その御仁が5年も経って、「君のやろうとしていることは間違っている」と自宅に怒鳴り込んできた。それも手下を引き連れてやって来た。それがどれだけ世間的に非常識であるかに、本人は気が付いていない。世間知らずとはそういうことだ。
私は彼を出禁にした。付き合うだけ人生で損をする存在である。
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例4 命知らず
人と面談しているのに、断りもなく勝手に携帯にでて、会話に盛り上がる御仁。人の時間(命)を殺しているのに、気が付かない。
私がある会合で隣席の人と話し合っているのに、何の断りもなく勝手にその人の話を遮断してきて、無神経に会話をする人。その御仁は自己顕示欲の塊である。
面談とは、その人のもつ時間(命)を頂いているのだ。1時間の面談ならその人の持つ人生時間を1時間いただいているのだ。命には限りがある。特にがんを患い、余命宣告までされると、残り時間を意識するようになった。その貴重な時間を殺す人とは付き合い方を考えるべきだ。
例5 無神経
直前まで一緒に仕事をしていて、私が手術で1か月休むと伝えても、見舞いも気遣いもしてくれない人もいた。
例6 金儲け一筋
人がガンで入院して1か月も留守をしていたのに、私の自宅を挨拶で訪問をして、「近くまで来たので、寄りました」という名刺を玄関ドア挟んでいった営業マンがいた。彼とは懇意でよく付き合っていた。私が入院中で、数週間、その名刺がそのままになっていた。折角、留守が分からないように、新聞や郵便を止めているのに、その偽装工作が台無しである。
退院後、それを発見し、電話で長期入院したことを伝えて苦情を言ったが、それっきりである。彼は営業マンとして、人間として終わっている。
彼とは同じ経営研究会で知り合った仲間である。彼は経営者になろうと勉強をしているのに、経営が何たるかを全く理解していない。経営者である前に、血の通った人間であるべきだ。
経営とは、今持てる資源を最大限に生かし、成果を上げることだ。資源の中で、一番大事な資源とは、仲間の命である。それを大事に出来なかったら、経営者として失格である。
私がその営業マンの立場なら、飛んできて謝罪とお見舞いをする。
例7 出不精
以前、かなりの頻度で一緒に食事をして、雑談を楽しんでいた知人がいた。入院中、かなり回復してきたので、電話で会いたいと伝えたら、「少し遠いので、退院後に見舞いに行く」という。私の入院の病院は名古屋のど真ん中で、彼の家から電車と地下鉄で2時間の距離の人である。
わざわざ電話で、病気を伝えて、来てくれることをお願いしているのに、退院後と言う神経が分からない。退院後ももちろん、見舞いには来ない。その人の人間性が分かり、その人とは縁を切った。
例8 守銭奴
ある親戚に手術の保証人を頼みに行ったら、断わられた。曰く、「娘から、保証人を引き受け、もし何かあったら、後始末と遺産処理でどうするのだ」と怒鳴られ、娘と喧嘩中だという。この会話で親娘ともに人間性に疑問を抱き、縁を切った。
その娘は地方銀行の支店長を務めている。銀行員の本性は、「晴れに日に傘を貸し、雨の日に傘を取り上げる」である。
血のつながりのないY先生から、保証人になってあげると言われ涙が出た。結果は、別の親戚に保証人をお願いして、事なきを得た。
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例9 対処療法だけの医師
病気になっても、対処療法しかしてくれない医師は信用できない。例えば、高血圧症になっても、降圧剤しか処方しない医師である。降圧剤では永遠に高血圧は治らない。高血圧になった真因を探して、それを無くさないと病気は治らない。私は降圧剤を20年間飲まされ、それで記憶力低下とガンになったと信じている。体が必要としているのに、それを薬で血圧を下げれば、別の病気になる。
対処療法だけしかしない医師から、降圧剤を長年処方されて、私も父もガンになった。
なぜ対処療法の降圧剤だけの治療になるか。儲かるからだ。大事な金づるとして、病院に縛り付けることが出来るからだ。医術ではなく、算術の重きを置いている輩である。
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地獄で佛に出会う
地獄で見る人間裏心理劇は面白い。死の間際まで行かないと見られない活劇である。
そんな折、九州の馬場恵峰先生から巻物の病気見舞い手紙をもらった時は涙が出た。九州にいて、高齢の先生は名古屋まで来れるはずもない。まさに地獄で佛に出会う、である。
人はたった一言、小さな心遣いで救われる。
観音菩薩様は、衆生の苦しみの声(音)を観ると、裾を上げ、一歩足を前に出す姿勢で、駆け付けて下さる。ありがいことだ。
手に持つ蓮のつぼみは、少し開いている。悟りを開いている姿の象徴である。
松本明慶大仏師作 聖観音菩薩像
馬場恵峰書『佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集』より
久志能幾研究所刊
2024-04-06 久志能幾研究所通信 2850号 小田泰仙
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