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2023年11月 2日 (木)

高齢者には「きょういく」と「きょうよう」が必要

 

 高齢者が人間として生きていくために必要なのことは、「今日行く」所がある「今日の用」があるである。それでこそ、人間として生きていける。それがないと、生きる屍として過ごすことになる。挙句に、妻から濡れ落ち葉扱いをされ、捨てられる(熟年離婚)。

 これは高齢者だけでなく、人間としても必要な素質だ。出不精者や引き籠リ、フリータの若者にも「きょういく」と「きょうよう」が必要だ。

 働き盛りの社会人でも、正規の会社業以外に、第二の人生の下準備で、やる事を作ることが必要だ。日曜日に家に籠ってテレビばかり見てゴロゴロしていては、定年後は認知症にまっしぐらである。65歳以上は15%が認知症である。入社したら、その40年後には会社生活の死が来ることは必然である。定年になってから、第2の人生の準備では、そのスタートが出遅れる。

 起きたけど、寝るまでとくに用もなし。

 生きてるけど、死ぬまでとくに用もなし。

 

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 馬場恵峰書


生きる意味

 何のために生れたのか、何のために生きるのか、やりたいことはないのか。

 なぜ死ぬのか。定年まで生きてこれたのは、社会的必要があって、定年まで社会から生かされていたからだ。生物は生殖を終わると、その生を終わる。カマキリの雄などは、生殖が終わると雌に頭から喰われてしまう。それが子供の栄養となる。サケも長い回流を終り、産卵を済ませると死ぬだけである。その肉は子供の栄養となる。雌の寿命が長いのは、子供を育てるために生きているからだ。

 男は定年後に自分で社会的な恩返しの道を探さないと、生き永らえるだけの存在になる。「生きているけど、死ぬまで特に用もなし」の存在に成り下がる。

 男が定年まで働けば、社会的な義務は果たしたことになる。子育ても終り、家のローンも終り、これからが本当の自分の人生なのだ。そのためにこそ、「今日行く」所がある、「今日の用」がある必要がある。なければ、自分で自分の用を作ることだ。それが不明なら、自分の才能や天命がどこにあるか、世間を歩いて探し回ろう。今からでも遅くない。世間を歩く距離と、出会うご縁の総量は比例する。ご縁の総量が多くないと、真の天命に出会えない。場数で勝負である。それを始めるのに、遅すぎることはない。

 

用を作る

 馬場恵峰師は中国に240回以上も旅行した。閑な隣人たちが「どげんして、そげん中国に何の用があるばってん」と噂していた。師曰く「用があるのではない。用を作りに行くのだ」と答えた。そこからご縁が生まれる。犬も歩けば棒に当る。出かけなければ、決してご縁にはぶつからない。そのご縁で、馬場恵峰師は中国浙江省に小学校を寄贈した。馬場恵峰師は「渓流希望小学校」の名誉校長先生である。その功績を含めて、馬場恵峰師は人口4230万人の浙江省で名誉市民賞を授与された。だから馬場恵峰師は94歳まで現役で活躍された。天が社会に必要と認めたのだ。

 

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「高齢者よ、大死を抱け」

 野垂れ死によりも、戦って死んだ方が死に甲斐がある。大プロジェクトを抱えて邁進し、途中で挫折してもいいではないか。そのプロジェクトの借金が返せなくても、どうせ相手も保険をかけている。高齢者の特権は「忍法踏み倒し」である。債権者もあの世までは追いかけてこない。安心して踏み倒せばよい。世のための踏み倒しなら、閻魔様も大目に見てくれよう。

 馬場恵峰師は60歳の時、社会貢献として大村市に「日中文化資料館」を建てた。家屋敷を担保に入れ、生命保険をかけ、1億円の借金を背負った。その借金を24年かけて返済した。完済時は84歳である。見習いたい行動である。その後ろ姿を見て弟子の2名は、同じく60歳以上の身で1億円以上の借金をして新事業を始めている。師の後姿の教示は素晴らしい。私も真似をする意向である。

 

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  日中文化資料館と図書館「三昧楼」  敷地350坪 大村市

  手前の松は、「迎客の松」

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2023-11-02  久志能幾研究所通信 2768号  小田泰仙

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