生きるとは
生きるとは、「必ず死ぬ命」を抱えて、過去、未来を振り切り、今を自分に与えられたお役目に全力で取り組む活動である。
私は人生を2005年3月27日に、そう定義した。先日、過去の京大カードの中からこの言葉を発見した。2005年とは、定年の5年前である
活動をせず、無為に生き永らえるだけでは、生きたとは言わない。人生で何をやったかが問われる。そう思ってがむしゃらに生きてきた。
お役目とは天命である。そのお役目は、「私」にではなく、「自分」に与えられたお役である。
自分と言う存在は、ご先祖を10代前に遡ると1024人の親が存在する。そのご先祖1024人以上の家系の代表として、DNAを引き継ぎ、今を生きている。
人は人生劇場で、お役が与えられる。主役の王様の役も有れば、脇役もある。奴隷の役もある。天が差配した役をえり好みはできない。その役も、時代と場所で位置付けが変わる。その時代も場所も親も自分では選択できない。
自分が戦争時代に生れて、特攻隊に選ばれたやも知れぬ。戦争に一兵卒として駆り出され、ソ連のシベリアに抑留されなかったことを喜ぼう。終戦後、父と叔父がシベリア抑留の身となり、叔父はシベリアの土になった。
自分とは、全体の中の「自ら」の「分」である。周りに支えられた存在である。
それに対して「私」とは、利己の世界である。「私」とは、稲(のぎ偏)を、腕(ム)で抱え込んだ姿の象形文字である。
2023-04-09 久志能幾研究所通信 2663号 小田泰仙
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