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2021年10月12日 (火)

死に際の教え、火葬場の教え

 

私のインプラント手術ドタキャン

 8年ほど前、馬場三根子先生(当時80歳くらい)から、「小田さんは若いから、インプラントを入れるなら覚悟して入れなさい。インプラントを入れると、MRI(電磁波検査)が受けられなくなる。」と助言を受けた。それで私はインプラント治療を手術の2時間前にドタキャンした。三根子先生の助言で、寸前で助かった。

 

馬場恵峰先生のインプラント

 恵峰先生は、死の1か月ほど前から、インプラントの入れ歯を外しておられた。加齢現象で、以前に作った入れ歯が合わなくなり、はめると痛いので、インプラントの入れ歯を外していると言われた。入れ歯を外された先生の顔は、急激に老けたようなお顔となった。いつもの若々しい(歳のわりには)お顔とは、別人のようであった。

 馬場恵峰先生は、その姿を晒して弟子に教えていたのだ。それが死に際の教えだ。

 人は加齢とともに骨も縮んで来る。インプラントは永遠に変化ないが、体は変化する。一度入れたインプラントも段々と歳を取るごとに合わなくなる。そんなことを金儲け主義の歯医者は、インプラントの手術前には「告知」しない。

 

三根子先生の喉仏

 2020年3月3日に亡くなられた馬場三根子先生の火葬が終わり、その灰葬でのことである。三根子先生のお骨は、とてもきれいなお骨であった。先生の喉仏のお骨は、「こんな美しい喉仏は見たことがない。よほど立派な方のようだ」と火葬場の職員が言われた。その職員と三根子先生とは面識がない。

 

灰葬で現れるインプラント

 残念なことは、インプラントの残骸も火葬の骨の中に埋もれていた。それがインプラントの手術をしたことが露見してしまう。故人の病歴が露見するのだ。それが残念であった。それは恵峰先生の灰葬でも同じであった。

 

喉仏

 火葬場で拾い上げられる喉仏は、男性の喉仏ではない。男性の喉仏は「喉頭隆起」と呼ばれる軟骨部分で、火葬の際に焼けてしまうため遺骨として残ることはない。

 骨上げの際に喉仏と呼ぶ部分は、背骨のひとつ。背骨のうち上から2番目にある「軸椎」と呼ばれる部分を指す。そのため喉仏は性別に関係なく、女性にも存在する。

 この喉仏は、形が座禅を組んでいる仏様に似ていることから、体に宿っていた仏様と考えられるようになった。そのため、数ある骨の中でも特別扱いされ、もっとも大切に拾われる。

 火葬のあとに喉仏の骨がきれいに残っていると「生前の行いがよかった」と信じられており、火葬場の係員に褒められることもある。

天礼社のHPより編集  https://www.naratenreisya-43-0008.net/nodobotoke/

 

馬場三根子先生の命日

 今日(2021年10月12日)、私の祖父の百回忌の法要を執り行った。その帰り道で、懇意の石屋さんから「3月3日は桜田門外の変の日で、井伊直弼公の命日だ」と言われ仰天した。私は言われるまで、全く気がつかなかったが、そのめぐり合わせに仰天である。

 馬場恵峰師の先祖は、武田信玄軍団の四天王の一人である馬場春信公である。武田家滅亡後、井伊長政公は100名余の武田家臣を受け入れた。獰猛な武田家臣団を浪人のままにしておくと、争いの元になると、井伊長政が家康に進言して実現した。井伊家の赤備えは、武田軍の赤備えを徳川家康公より許されて使用したもの。2018年、私は恵峰先生ご夫妻を彦根にそのご縁で案内したばかりであった。

 

赤備え 

 赤備えは、戦国時代から江戸時代にかけて行われた軍団編成の一種。構成員が使用する甲冑や旗指物などの武具を、赤や朱を主体とした色彩で整えた編成を指す。戦国時代では赤以外にも黒色・黄色等の色で統一された色備えがあったが、当時の赤色は高級品である辰砂で出されており、戦場でも特に目立つため、赤備えは特に武勇に秀でた武将が率いた精鋭部隊であることが多く、後世に武勇の誉れの象徴として語り継がれた。

 赤備えを最初に率いた武将は甲斐武田氏に仕えた飯富虎昌とされ、以後赤備えは専ら甲斐武田軍団の代名詞とされる。

  この項、wikipedia「赤備え」より

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  井伊家の赤備え  彦根市役所にて  2021年10月12日撮影

2021-10-12  久志能幾旧研究所通信 2177   小田泰仙

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