私を踏みつけていったエリートの末路
エリートのコンプライアンス値は低い
自分のサラリーマン生活38年間を俯瞰して分かったことが、エリートと呼ばれる輩の虚弱さ、免疫力の小ささである。そういうエリートを選抜する役員が跋扈すると、会社は左前になる。それで私の前職の会社は消滅した。
私はエリートでなかったので、雑巾がけから接待営業まで会社の業務のほぼ全てを経験させられた。要は、お魚を頭から尻尾まで食べたと同じである。それに対してエリートは、トロの美味しい部分だけを食べるようなものだ。その差は、私の経験と比較して逆境で表れたようだ。その分、私のコンプライアンス値は上がった。
私の経験
私は、設計、実験、原価計算、見積もり、営業、接待、現場指導、棚卸、現場監督、汚れた廃液タンク掃除、教育、出向経験、土木工事(これが現場実習となった)、道路建設工事(親会社の天皇様が視察にくるというので、急遽工場内に道を造った)、自動車部品生産工場でライン業務、海外への機械設置、機械サービスマン、焼き入れ工場・鍛造工場・鋳物工場の担当課長、ISO内部監査員、バスツアーの引率、総会の段取り・司会、特設消防隊消防隊長、テストドライバー、等現場で真っ黒になって働いた。
現場の課長(焼き入れ、鍛造、鋳造)となっても、現場のオジサンたちと仲良くなって、後から感謝をされた。「(私の)後の課長は現場に来ても、偉そうに振舞い、我々に挨拶もしない」とかで、後日懐かしく話してくた。私は現場で、現場のオジサンたちに声掛けや挨拶は欠かさなかった。後日、そういう風な評価されて感謝である。
エリートの処遇の差
ある有名大学出の若者は、会社が不況になり、現場応援(自動車部品工場でのライン業務)が通達されると、出身の大学の教授に泣きついてそれを免除してもらった。会社もその大学の教室から学生が欲しいので、教授には逆らえない。その後のその若者の出世話は聞こえてこない。
私と一緒に仕事をしたことのある主任は(アメリカ出張時にお世話になった)、現場応援に出されて、ある日の朝、単身赴任として泊まっていた寮の一室で、冷たくなっているのが発見された。残された妻と幼い子供が哀れであった。
エリートの栄光
私の部署に配属された2名のエリート扱いの若者は、回りから鼻ツマミモノであった。将来の役員として処遇されていることがミエミエの扱いであった。
まだ仕事の実績もないのに、私を追い抜いて海外見本市視察である。その順番は、事業部内で暗黙のうちに決まっていたが、私がその時期になって意図的に(そうとしか思えない)、別の部署に異動になり(飛ばされて)、その若いエリートが海外視察のメンバーに選ばれた。
私は、当時たまたま会社創立60周年社内懸賞論文募集があり、それで最優秀賞を勝ち取り、副賞であったその海外見本市視察の切符をもぎ取った。
その若いエリートは、当時めずらしかったAIを使った技術の研究論文である賞をもらった。内容を見ると実務上では、オモチャのようなものであった。その学会で、上司が役員の座にあり、大学の先生と懇意であったので、裏工作でその賞を獲得したのがミエミエであった。日本の学会の賞など、その程度のものであることが分かったのが、収穫である。ちゃっかりとその役員も表彰の一員となっていた。お手盛り受賞である。
エリートの末路
二人は経歴に箔を付ける為、ある部品加工する機械の開発で、博士論文を書くため2年間、上司の出身のT大学に派遣された。しかし、二人が博士号を取って会社に戻った頃に、親会社で別の技術開発が進み、その機械の技術が不要となってしまった。もともとその機械の開発に、博士号の取得は不要である。あくまで彼らに博士号を取らせるのが目的である。
二人は、それが面白くなかったのか、一人は大学に帰ってしまった。会社から2年間も博士号取得為の金を使ったのに、である。恩を仇で返すようなものだと我々は呆れた。それから20年、彼はその有名大学で教授にもなれず、政府の外部団体の研究所で並みの教授に就任している。
もう一人のエリート扱いの若者は、室長までは出世はしたが、結局、引き立ててくれる役員がいなくなると、閑職に飛ばされ、精神を病んで休みがちになったという。今は定年間際である。鳴かず飛ばずである。
人に三不幸あり。
第一に、少年にして高科に登る。一不幸なり。
第二に、父兄の勢により美官を得る、二不幸なり。
第三に、高才(多才)ありて文章よ能くす、三不幸なり。
『小学』
人間には三つの不幸がある。第一は年若くして出世すること。第二は父母のおかげによって、高位な官職につくこと。第三は才能に恵まれ、文章が達者過ぎて過剰に自分を美化すること。
これらは常人が喜ぶべき事だが、現実は、学問の未熟、他人のヒガミ、そしり、徳の不足によって、身を持ち崩し、道を誤まるもととなる。
私には天分の才能がなかったので、血みどろな努力で自分の能力を磨いた。一歩一歩積み重ねてきた能力であるので、それに自信がある。その努力の過程で多くの学びがあった。今にして悟ったことは、人は無理して偉くならなろうとしなくてもよいということだ。真っ黒になって黙々と働けば、仏様が相応の対応をしてくれる。自分の能力相応の偉さがあれば、それでよい。市場の評価、世間の評価は、神仏の如くである。
2019-07-02 久志能幾研究所通信 1652 小田泰仙
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