何のために書くのか?
冷静に自分の書いた内容を見れば、人間的成長レベルが分かる。私は本ブログで日々、多方面にわたり記述するが、まるで自分の心を全方向からX線を照射して、心の状態を投影するがごときである。元気であれば、元気な書き方になり、悲しければ悲しい文体になる。
あるモノについて書こうと思って筆を執っても、知識や思いがないので筆が進まず、それに対して無知であったことが露見する。
思考の発露
新入社員にあるテーマでモノを書かせれば、その能力のレベルが一目瞭然である。日頃、考えていないと何も書けない。私が新入社員教育で講座を持つと、必ず受講生にレポートを書かせていた。それを見れば、その人の能力が丸見えである。考えていなければ、文章にはならない。
書くことで、自分の表現力が分かり、他人との比較で自分というものが見えてくる。書くとは、己の精神と魂の伝達ある。魂の叫びがないと、心を打つ文章は書けない。肉体は滅びても、書いたものは残る。
過去の自分の死
書くとは、死を意識すること。ある時期の考えがその文章に現れる。時がすぎれば、当時の自分は死んで、新しい今の自分がいる。当時の死んだ自分の考えが、その文章に残っている。過去の文書を見れば、それと比較して自分の成長が分かる。
死んだらおしまいと殺人を犯し、盗みをする輩は、欲望に踊らされた畜生なのだ。自分の生と死を見れば、そんなことができるはずがないのだ。
他との対比
文章を書くとは、オーディエンス(テクニカルライティング上の表現で「読者」)を決めないと、筆も進まない。文書を書くとは社会との対話なのだ。
無差別殺人事件で、殆どの犯人が「被害者はだれでもよかった」という。犯人は、己とそれ以外の社会しか見ていない。しかし自分は社会の多くの人の繋がりとその反映として生かされている。自分は他の人の存在なしにはあり得ない存在である。「自分」とは禅語で、「全体の中の自らの分」を意味する。無差別殺人の犯人は、その関係を無視して生きてきたのだ。だからそんな大罪を平気で犯す。
錯乱した頭脳の整理整頓清掃清潔
人は「貴方(私)の文書は論理的で、結論が明確でわかりやすい」と褒めてくれるが、その褒めた人から、「貴方のお話しは情報が多すぎ、話題が飛びすぎ、結論が分かりにくい」と呆れられ、笑われている。それが現実の姿なのだ。その錯綜した考えを整理整頓して、結論を明確にするには、書いて視える化しないと文章の整理整頓ができない。書くうちに、無駄な情報が見つかりゴミ箱に放り込み清掃し、結論に整理することができる。だから話しただけではダメなのだ。文書にすれば、その言葉をお化粧(推敲、清潔)することもできる。
2020-07-10 久志能幾研究所通信 1661 小田泰仙
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