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2020年3月12日 (木)

訃報 春風散華

 2020年3月3日12:00頃、馬場恵峰先生の奥様・三根子先生が心臓発作で急逝された。享年89歳。最期近くまでほぼ現役と変わらない生活をされておられたので、天寿である。

 2020年2月14日、私が帰宅のため馬場先生宅から大村駅まで車で行くとき、お元気な姿でその車に同乗された矢先である。それが最後のお別れとなった。三根子先生が大村駅まで私の乗る車に同乗されたのは、最初で最後のことであった。

 三根子先生は地元の温泉で気持ちよく入浴されていた時に、心臓発作に襲われた。お風呂には時節柄、誰も入浴していなかったため発見が遅れたという。入浴中は、歌を歌われていたという。溺死ではあるが、心臓発作のため水は飲んでいなかったようで、苦しまず逝かれたのがせめてもの救いである。天寿であるが、もう少し長生きして頂きたかった。

 その訃報を聞いて慌てて九州に走り、通夜、本葬、火葬、灰葬、仕上げ、自宅の祭殿へ設営してお参り、翌日に先生宅を再度訪問してお参りと写真を進呈してから、帰宅の途に就いた。

 

撮影担当

 葬儀のお手伝いとして、恵峰先生の依頼で、葬儀の模様の写真撮影を担当した。200枚ほど撮影して、夜にホテルで編集して、葬儀の翌朝、その印画130枚とSDカードを恵峰先生と家族にお渡しした。それで恵峰先生から大層感謝されたのが幸いである。

 これは日頃の恵峰先生の教えから学んだ行動である。いつも先生に揮毫をお願いするとその場で書いて頂ける。先生は「今日、依頼の書を持って帰れば、後日に郵送で送るより、頼んだ人がずっと喜ぶはず」といつも相手を慮かる恵峰先生の行動から学んだことである。だから、私は撮影した翌日に写真プリントを恵峰先生に進呈した。

 当初は、大垣に帰宅後、写真を編集して、地元のカメラ屋でプリントを頼む予定であった。本葬の後、夜ホテルに着いて、先生の教えを思い出し、急遽ノートパソコンで撮影した写真を編集して、翌朝に大村市の「カメラのキタムラ」に行き、そこでプリントをした。SDカードもそこで購入して、先生宅に着いてから、ノートパソコンから直接、コピーをしてお渡しをした。

 

遺徳を偲ぶ

 現在、猛威を振っている新型肺炎の影響で弔問客が少ないかと思いきや、約500人の方がマスク姿でお参りに参列され、生前の遺徳が偲ばれた。

 お葬式とは人生の卒業式である。そこに人との交流の歴史とその人が遺した業績が凝縮される。徳のある人生を送れば、皆から惜しまれて、多くの人が参列し、立派なお葬式をしてもらえる。その例を馬場三根子先生、河村義子先生の葬儀で再確認した。ここ1年間で、私は立て続けに大事な人を三名も失った。それも悲しいが、徳のある偉大な人とご縁があったことを喜ぶべきなのだ。ご縁は偶然だが、別れは必然である。そのご縁がよきご縁であったことを感謝したい。

 書の弟子を代表して黒川雅子さん、明徳塾関係の田舞徳太郎社長、孫の代表が弔辞を述べた。最後に恵峰先生の感極まる御挨拶があったが、私はいずれの弔辞にも感銘を受け、生前の三根子先生の温かさ、徳の高さを再確認した。

 

金で買えないもの

 歳月人を待たず。

 春風秋雨。

 何時までもあると思うな親とカネ。

 出合いは偶然、別れは必然。

 生は偶然、死は必然。

 

 稀有なめぐり合わせで恵峰先生、三根子先生とご縁ができて、今まで13年間、三根子先生を母と思い接してきて、孝行すべきことはやったという思いである。

 私が昨年、癌の手術をしてから9か月間程、体力の関係で先生宅に行けなかった。昨年の10月から先生宅に行けるまで体力が回復した。先生宅を訪問するたびに、三根子先生から「小田さん、今度はいつ来るねん?」と言われる。つい「また来月参ります」と言わざるをえない雰囲気であった。そう言われるのも嬉しいものだ。三根子先生のそばにいると春の風を受けるように温かく気持ちが和むのだ。そのため想定外に旅費の出費がかさんだが、それに応えて毎月顔を出したのが、せめてもの先生孝行であった。

 後から、「あの時、会いに行っておけばよかった」という後悔はないのが救いである。此の世では、いくら金を積んでも買えないものがある。今度はない、何時かもない、今しかないことを改めて教えられた。三根子先生のご冥福をお祈りします。

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馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集「報恩道書写行集」(久志能幾研究所刊)より

 

2020-03-12 久志能幾研究所通信 1499 小田泰仙

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