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2020年1月11日 (土)

西方浄土の近くの極楽へ旅行

 西方浄土の近くの極楽に旅行してきたので、この1週間ほど、ブログを休載しました。恐縮です。その極楽で、考えさせられることが多々あった。極楽と地獄は表裏一体である。本人には極楽であっても、その裏に地獄がある。

 昔、受験地獄を経験したが、今から見るとそれは極楽であった。地獄があったから、その後の幸せがあった。地獄を見なかった者が、フリーター、リストラ、認知症の対象となっている。

 地獄であっても、健康でそれを修行として対処する人は、その地獄が己を鍛える修行の場に変わる。己の至らぬ点を地獄の火が浮かび上がらせてくれる。地獄が明らかになるのは、己が積み重ねた罪が明らかになる時なのだ。

 

明徳

 闇夜で、月の光に照らされて、松の葉が浮かび上がる。暗夜で己の徳が浮かび上がる。真っ黒な空間で、弥勒菩薩が三千光年先から照らす光で、己の徳が浮かび上がる。それが明徳である。仏様は生死を管轄している。人は生死を考えず、己の健康管理に精進すれば良いのだ。

 いくら健康管理に精進しても、人は120歳以上には生きらない。必ず死がある。死を前提に生きないから、人はモノに執着する愚かさを演じる。死んでしまえば、後は野となれ山となれ、である。

 

地獄に向き合う者

 人は地獄を見て成長する。生かされ活きる法を知る者しか、地獄と極楽が織りなす人生の真理が見えない。生きているから苦しみがある。極楽で生きる者には、苦しみがない。それは脳死である。地獄でもがく人は、徳と智慧を授かる。人を匿名で誹謗する者は、徳と智慧と己の魂も地獄の河に捨てている。

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 魂 松本明慶先生作       書は馬場恵峰先生作

 

2020-01-11 久志能幾研究所通信 1446  小田泰仙

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