釈尊とジュリアス・シーザの教え
以下は1998年当時、部下を持ち、悩み多き中間管理職として、部下の皆さんに「室長通信」として発信したコメントである。今、読み直し、病身の今の身に対して、過去の自分からの励ましとして読み直している。(2019-08-20)
いま立っている階段でうまくいかないからといって、他の階段に移ろうとしても、「今」の階段で責務に全力投入できなければ、どこに逃れても能力は発揮できない。それは意識の問題である。また、そんな考えは他部署への大いなる侮辱となる。逃げたことの過去は、後日の負い目になる。そんな気持ちでは、どこへ行ってもうまくいかない。それは逃げの心、責任放棄である。
空腹が飢餓の足しにならないように、嘆き・逃げの心は、階段に踏みとどまる力にならない。
小田 (1998.11.01)
「アングリーマよ、あなたは耐えなければならないのだよ。長く他生にわたって受けるべき業の報いを、今あなたは受けているのだからね。逃げることなく、じっとそれに耐え忍ぶべきなのだよ」---釈尊
増原良彦著『釈迦の読み方』 1983.04.09
けれども、ほんとは不当な仕打ちなんてないのである。私たちの眼には、入り組み、絡まったその関係の糸は見えないのだが、原因と結果は必ず結ばれているのである。
私たちは、それを信じなければならない。私に今課せられている運命・苦しみが他の誰でもない。わたし自身のつくった業の結果だと信じて、それを自分の肩に背負わねばならない。他人に責任を転嫁したり、責任を回避してはならない。自分の運命・苦しみであるのだから。それをじっと耐え忍ぶべきだ。
増原良彦著『釈迦の読み方』 1983.04.09
「アーナンダよ、争いごとが起きたなら、それが鎮まるまでその場所で耐えねばならぬ。それが鎮まってから、別の場所に移るべきだ。戦場にいる像が四方から飛んでくる矢に耐えるように、人々からののしりに耐えるのがわたしたちの務めである。」---釈尊
増原良彦著『釈迦の読み方』 1983.04.09
正義は狭量なのだ。正義の主張者は、相手に対する思いやりを持てない。
正義を主張する者は狭量である。自分に対する正義で、そのために傷つき、涙を流す人がいても、正義に盲目になった人間は強引に正義を押し通す。正義にはそんなところがある。だから正義にこだわるのが一番危険である。正義にこだわると私たちは阿修羅とならざるをえないのだ・・・。
増原良彦著『釈迦の読み方』 1983.04.09
◆おかげさま◆
病気になったのも「おかげさま」、災難に遭うのも「おかげさま」、不況で苦労するのも「おかげさま」、というように、自分にとって招かざる事態になっても、すべてそれが何かを私たちに働きかけてくれているのですから、逆境もまた「おかげさま」と受け止めて行くべきなのです。
「『完全なる知慧の神髄』般若心経のこころ」PRESIDENT 1996年10月号 P166
◆ブッディストの3条件◆
1.人と比べない
2.神仏に頼み事をしない
3.世間様に迷惑をかけない
斑目力曠談 『日経ビジスネ 1997.09.08』「有訓無訓」
◆運命◆
親愛なるブルータスよ。その過ちは我々が悪い星の下に生まれたからではない。過ちは我々自身の内にあるのだ。
----シェークスピア『ジュリアス・シーザ』
2019-08-20 久志能幾研究所通信No.1302 小田泰仙
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