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2018年8月12日 (日)

第五段 生

生とは天からの授かりもの。生あるもの死は必然である。五段の「生」から四段、三段とカウントダウンをして第一段の「死」に向かう。カウントダウンの音が聞こえる中、我々は何を為すべきか。何を残すべきか

Photo_3  馬場恵峰書 五重塔の前面の和歌

 

生あるものの証し

 生あるものと、そうでないものの違いは何か。それは実践の有無である。実践できなかったら、それは生の状態ではなく、生き永らえているだけで、死を待っていると同じである。生きている以上は、生きて活動せねば、命を恵んでくれたご先祖に申し訳ない。

 病気、事故、祟りは、ご先祖の霊魂が子孫を想い、早く気づいて欲しいとのメッセージである。ご先祖が、かわいい子孫を虐めるわけがない。霊魂は自分では実行できないので、病気や事故で、早く気づいてほしい、己の代わりに実行して欲しいとメッセージを出している。己に降りかかる吉凶の現象を、ご先祖(神仏)のメッセージとして考えるのが、宗教である。宗教とは、己の宗家の元なる教えである。それは畜生にはできない人間だけの尊い祈りである。

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己を殺す死神

 できなかったのではない。やらなかったのだ。己の内なる守り神がやれると言っているのに、内なるもう一人の己が反対しただけだ。その一人の己とは、人生を殺す死神である。やることをやらないと、神仏は容赦なく、その人からやる能力を奪ってしまう。やらないと、できない理由が次から次と出てきて、できないという思い込みの洗脳教育を己に課す。それで一人の認知症患者が生まれる。己の死である。己の内なる死神に殺されたのだ。やらないという「選択」をしたのだ。誰のせいでもない。

 まず一歩を踏み出そう。千里の道も一歩から。それが「為せば成る 為さねばならぬ 成らぬ業を 成らぬと捨てる 人のはかなき」だ。

 

生きているから焦る

 下記は馬場恵峰書で、「せ」の踊るような優美な字体に一目ぼれで入手した。生きているから「焦る」のだ。どうせ、いつかは死ぬ運命。焦らず、一歩一歩、生きた証を残すことで、千里の道を歩いていきたい。余命40年(?)の残り少ない人生を大事に生きていきたい。

 漢字「焦」の上部は、多くの小鳥が集まった状態を表す象形文字である。その小鳥を下から火で炙るの意味である。小鳥とは己の雑多な欲望である。それを全て満たしたいと思うから、焦るのだ。

 希望を持ち実践するから、生きている。何もせず、棚ぼたを待つだけなら「死」も同然である。だからオダ仏教の教祖は焦って忙しい。

 

「南無阿オダ仏」

 私のオダ仏教のご真言は「南無阿オダ仏」である。真言宗の真言「南無阿弥陀仏」の「南無」とは梵語の音訳で、敬礼の意味で、帰依します、全てをお任せします、の意味である。「阿」は接頭語で敬称。「弥陀仏」は西方浄土の仏さまの名前である。

 私の真言「南無阿オダ仏」とは、自分の内なる声に従って行動します、である。豊田さんなら「南無阿豊田仏」である。自分の内なる仏を信じなくて、誰を信じるのか。変な新興宗教に走るから、人生を誤る。人生で迷っても、内なる声に耳を傾ければ、ご先祖様が、黙って導いてくださる。自分とは、この世でご先祖を代表して生きている存在である。自分はご先祖の希望を実践する執行役員である。そう自覚できれば、認知症などに罹っている暇はない。

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2018-08-12  久志能幾研究所 小田泰仙  

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