墓標から見える指導者の人徳(改題)
石田退三氏の墓所参拝
作成した自家の家系図を眺めるほどに、ご先祖に不幸が多いことが気になり、2015年7月7日、ご先祖供養として総諷経を長松院で上げていただいた。その日の午後、松居店主の案内で多賀町(彦根市の隣町)の石田家の墓所を参拝した。石田家の墓は1尺2寸の竿石の大きさで立派な佇まいである。華美ではなく品のある厳かなお墓であった。三河の牛岩石を使い、威風堂々としたお墓であった。この時、松居店主が気づいたのが、石田退三氏の法名であった。「豊光院釈精進」とあり、「豊田を光らせた釈迦のような精進をした者」と表現された法名である。お釈迦様の最期の言葉が「精進せよ」であった。法名はその人の生前の威徳を偲ぶ名前である。トヨタの大番頭と呼ばれた石田退三氏に相応しい法名である。
石田退三氏の人柄
「石田退三氏はきわめて腰が低く、私どものような人間にも対等にお話をして頂いた」と先代の松居店主が回顧されている。6代目の現松居店主は、直接に石田退三氏と話したことはないが、奥様やその子孫の皆さんとお話をする機会が多くあり、その人たちも偉ぶらず誰とでも対等のお話をされるという。やはり石田退三氏の後姿が、家風として奥様や子孫に伝わっているようだ。
腰が低くても、トヨタの大番頭として、やるべきことをやるべきときに決断をして、トヨタを大きく成長させた。その前提として徹底した節約で金を貯め、トヨタの戦後の危機を乗り切り、貯めた金を設備投資に回した。児玉一造氏から薫陶を受けたDNAがあったからだ。
「自分の城は自分で守れ」が信条であった。私の前職の会社も一時期、左前になって親会社のトヨタに援助を仰いだら、「自分の城は自分で守れ」とのありがたいお言葉だけの援助を頂いた。確かに自助努力をしないのでは、企業は生き残れない。単なる金の援助だけでは、一時しのぎの援助となり逆効果である。
松下幸之助翁は、石田退三氏を師と仰ぎ、松下電器の役員はたびたび石田氏のところに行って話を聞くのが通例となっていた。
エピソード
以下、先代の松居店主が石田退三氏から直接聞いた話である。石田退三氏がまだ児玉商店に奉公をされていた頃、児玉一造氏の家に豊田喜一郎氏が訪ねてきた。その時、児玉氏は外出しており、いつ帰るか不明であった。石田退三氏が喜一郎氏に「上に上がってお待ち下さい」と何度言っても、豊田喜一郎氏はじっと土間でかなりの時間、待っていたという。豊田喜一郎氏は児玉一造氏に、自動車造りのために資金の援助をお願いに来たのだ。帰ってきた児玉一造氏は、豊田喜一郎氏から話を聞き、細かい取り決め無しで資金を用立てたという。それを見て石田退三氏は、児玉さんが豊田さんに対して全幅の信頼を持っておられる姿に感動されたという。その後、石田退三氏は児玉一造氏の薫陶を受けて、経営手腕が磨かれた。それがトヨタが倒産の危機に瀕した時、そのトヨタを再興するために、それが役立ったようだ。後年、石田退三氏は児玉氏から言い含められてトヨタに経営を助けるために派遣された。本人はトヨタなどには行きたくなかった(?)とかいう噂もある。それでも石田退三氏は、児玉氏が全幅の信頼を寄せていた豊田喜一郎氏に誠心誠意、尽くしてトヨタを大きくした。それで今のトヨタがある。
児玉一造氏を師と崇めていた石田退三氏は、お墓も児玉家墓所のデザインを踏襲して、少し小さいサイズのお墓を建てた。それが、私が参拝したお墓である。
近江絹糸の因縁
それと対照的なのが彦根で繊維会社を創業した夏川嘉久治社長である。近江絹糸(後のオーミケンシ)は1917年に滋賀県彦根市で創業された。私の父が勤めた会社である。その夏川嘉久治社長は、いかにも大企業の社長であるような態度で業者に対応したという伝聞がある。謙虚さが無く、驕りで頭が高ったのだ。その会社は3代続かなかった。子孫は彦根を離れ、近畿に住まいを移して、そのお墓もお参りがされてないようで、荒れていた。いくら立派なお墓でも、手入れがされていないとお墓も荒れる。住まいを遠方に移すとは、そのご先祖のお墓も置いて去るということである。墓参りも疎かになりがちである。諸行無常を夏川さんのお墓を見て感じた。
同じ時代に生きた石田退三氏と夏川嘉久治社長の因果が興味深い対照を見せる。トヨタは世界的な企業に成長し株価8,116円であるのに、その近江絹糸の株価が74円の会社に没落した現状は、鮮やかな対比である(株価は2015年7月7日現在)。それがお墓の現状の姿に冷酷に投影されている。我が家の家系図での歴史に照らして、考えさせられる因果応報である。
繊維業界の環境が激変したのは事実であるが、東レや帝人のように炭素繊維や医療品分野等の最先端技術で、現在でも世界に羽ばたいている会社も存在する。すべてトップの人徳と先見性と指導力次第である。
私の家族の生活を支え、育ててくれたオーミケンシにはご恩を感じるが故に、その夏川社長の会社経営としての顛末に忸怩たる思いがある。
壊される直前のオーミケンシ大垣工場 2010年
壊される直前の姿
墓石の品質の差
石田家のお墓は昭和37年に建立されている。傷みも無く立派な佇まいのままである。それに比較して昭和38年に建立した我が家のお墓の石(並松(なんまつ))に、綻びが目立つことに思い至った。石田家の墓石は三河の牛岩石で、今は稀少石材になってしまい、1尺2寸もの大きな竿石の石材は枯渇して入手不能という。あっても小さい材料しか手に入らない。高いものにはワケがある。それを石田家のお墓が53年の年月で実証した。高価で高品質と安価で低品質の石の差は、年月が明らかにする。
ダーウィンの法則
強いもの(企業)が生き延びるのではない。いかに素早く環境に適応したものだけが生き延びる(ダーウィン)。それには組織を指導するリーダが、謙虚に素直にものごとや時代の流れを見極めて経営判断をしないと、没落・滅亡である。一人の指導者の如何で組織は繁栄もするし、滅亡もする。組織のリーダの配下には、多くの部下、従業員、家族がぶら下がっている。それに責任があるリーダの頭が高くては、判断に誤りが出る。
大垣市の墓標
今の小川敏大垣市長には、頭が高く人の話を聞かないという噂がある。それが遠因で小川敏市長の行政17年で、大垣市は衰退し、大垣駅前商店街の61%がシャッターを下ろしたという現実がある。下した商店のシャッターとは、大垣商店主達の墓標である。大垣市商店街の墓標である。シャッターには、商店に伝わる歴史がある。シャッターを下ろすとは、その商店の死である。
大垣市を久しぶりに訪れる人が、「大垣はずいぶん寂れたね」という声をよく聞く。すべて小川敏大垣市長の愚政が原因である。なにせ最高学府を出たという意識があるようで、人の話を聞かない。大垣の活性化には逆の効果となる政策ばかりに17年間も執着して、経営の基本のPDCAを市の経営で回さず、滅亡に向かって盲進している。先を見る眼が無く、100年先の計画も無く、目先のカンフル剤のようなイベントばかりに力を注ぐ。その挙句が、ドローン墜落人身事故である。頭は良くても経済音痴である。大垣が衰退するのも故あること。
大垣駅前商店街のシャッター通り
お昼時の商店街で誰も歩いていない。2017年9月8日(木)14:03
大垣駅前商店街 赤はシャッターを下ろしたお店 2017年9月現在
2017-12-27
久志能幾研究所 小田泰仙 e-mail : yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp
HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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