いろはにほへと
お墓を作る過程で、2014年に家系図を作成した。その家系図上を俯瞰すると、華々しい人生模様を形作るツワモノどもも、いつしか香も色も消え、全て墓石に記録を留める様は、勝者必滅を示す如きである。自分の人生を振り返り、青春を謳歌し体力に任せて無理を重ねた時もある。若い時には夢多き青春を謳歌したのに、何時しか時も過ぎ、体のあちこちに不具合を感じる頃になって、平家物語の祇園精舎の鐘の声や弘法大師の作と言われる「いろは歌」が自分に迫ってくる。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、紗羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。(『平家物語』)
自分の肉体と心を持つ自分自身は、自分のものではない。沸様の預かり物と思うこの頃である。いつかは沸様の彼岸に返さねばならない。自分を含めて全ての一族は沸心一体として家系図を彩る様こそが、沸のなせる技である。自分は小さな存在であるが、この世で出来ることを夢見て過ごすことが、夢見ず無為に過ごす人よりも人らしい生き方であると思う。その夢が破れて涅槃に逝っても、夢見た証があれば、その後を追う子孫が生まれてくる。ご先祖が何時かは歩いた道を、生まれ変わった自分が歩いている。
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静
三法印の「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」とは仏教のあるべき姿を現した標語である。「いろは歌」はそれを踏まえた歌として詠まれている。佛と自分が一体となってこそ人の人生である。
いろは歌
色は匂へど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔いもせず
無常なこの世の中を今まで歩いてきた。誰一人永遠の繁栄を遂げた人はいない。「今」まさに越えにくい深山に入ろうとしている(有為とは佛語で、直接間接の諸条件、即ち因と縁の和合によって作られている恒常でないもの)。軽薄な夢などは見ず、正気になって涅槃に逝く覚悟である。浮世の幸不幸や貧富の差は夢の如し。有為ではなく無為(因縁によって作られたものではなく、常住絶対の真実である悟り)の世界に向って歩くことが修行である。それが身沸一体の境地となる。今の世を夢と思わずに大きな夢を見つつ、その実現に向けて、一歩一歩絶えまず人生の旅を精進したい。
いろは歌とのご縁
私が「いろは歌」の意味を知ったのは、高野山伝燈大阿闍梨中村公隆著『いのち耀いて生きる』を読んだ2014年7月(64歳)の時である。これも今川順夫氏が中村公隆師の米寿のお祝い会に招かれ、その時の中村公隆師贈呈の御本を私に贈って頂いたのがご縁である。その本を読み、他の著書も手に入れて得た知識である。今川順夫氏とのご縁がなければ、出会わないご縁であった。
2017-12-23
久志能幾研究所 小田泰仙 e-mail : yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp
HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。
コメント