自分と言う宗教
宗教とはお釈迦様やキリスト様を信ずることではない。宗教とは人としての「宗(もと)」の教えである。元とは祖先、本家、おおもとである。「宗」は「宀」+「示」で構成され、「宀」は家屋、「示」は神事の意味である。「宗」は神事の行われる家屋、おたまやの意味を表し、転じて祖先や祖先を祭る一族の長の意味を表す。だから家系が信ずるご先祖の教え(家訓)を守ることも立派な宗教である。その家長が家訓を守って実行していれば、家長は教祖として立派な宗教家である。本多さんなら本陀羅佛教の教祖様である。だから私はお陀佛教の教祖である。
お釈迦様はあの世があるともないとも、何も仰らなかった。戒名もお墓も作らずに旅立たれた。病で亡くなられたので、穏やかな死である。他の宗教の過酷な死とは違い、教祖の穏やかな死は、その宗教の雰囲気にも影響する。
戒名も経典もお墓も後世の弟子達の創造物である。原始仏教は単純である。それでは庶民に有り難さを感じさせられないので、後世の弟子が装飾を施したのが現代の宗教である。現代の宗教は減価償却費や維持管理費、人件費がかかるので、護持会費や戒名や法事等の名目を立てお金を集めているのだ。それも方便である。それで宗教の世界が回れば佛様、僧侶、檀家の三方よしである。文化が発達したこの世なのだからそれくらいの「お化粧代」があっても良いと思う。やりすぎて金儲けが目立つ宗派が存在するが、その宗派の本質を見極めて、縁なき宗教として避ければよい話である。
人間としての教え
人間としての根本の教えは全宗教とも基本的に同じで、簡潔に表現すれば、「汝殺すなかれ、汝姦淫するなかれ、汝盗むなかれ」である。それは人間社会が人間社会としてあり続けるための当たり前の戒律である。それが人間と動物の世界を分けた掟でもある。それに各民族の風土の要素を加味した教えが各宗教・宗派である。砂漠の厳しい環境で生まれた宗教は厳しい戒律となる。「目には目を、歯には歯を」である。温暖な風土で生まれた宗教は温厚な戒律となる。それを見極めてどの宗派に属して信仰を深めるかは各自の自由である。
ちなみに仏教ではその宗派への勧誘は禁止されている。勧誘に熱を上げるのは新興宗教の特徴で胡散臭い集団である。それが宗教の真贋を見分ける一つの目印である。わが菩提寺が檀徒集めで勧誘をして歩いているという話を聞いたことがない。
人間としてあるべき姿は、「人と比べず、ご恩ご縁を忘れず、命を大事に、自分の天命を知り、吾が道を歩く」を信条とすれば、それも立派な経典といえる。人智超えた神仏の存在を信じて畏敬して生きる。それが智慧ある人間としての生き方である。自分教を信じて、人生を全うしたい。
2017-08-22
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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