人生の「いろは歌」
鴨長明も『方丈記』(1212年 建暦2年作)で、河の流れを人生に見立てて、世を詠っている。水門川を毎日横目で見ながら歩いていると、自分の人生と重なる。儚く移ろいゆく人生は、危機感をもって生きるべし、である。
「行く河の流れは絶えずしてしかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは且消え且むすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと又格の如し。」『方丈記』
人生の秋
散歩道「ミニ奥の細道」を最初の5年ほどは、チンタラと歩いていたため、人生での思い出が色々と浮かんでは消えていった。しかし最近は、高血圧の治療を目的に、汗ばむほどの速度で大垣の「ミニ奥の細道」を駆け巡るので、頭に浮かんでくる事項が建設的になった。やはり人生は目的を持って精力的に歩かねばならない。
人生の旅は時間制限があり、いつかは終わりが来る。「いろは歌」は人生の旅を象徴している。いくら栄華を誇っても何時かは散る運命である。『平家物語』からも人生の哀愁が伝わってくる。どちらも同じことを詠っている。その中でどうやって生きていくか、歩き続けても答えは出てこない。「いろは歌」は仏教の経典の中の言葉を元にしたといわれている。
いろは歌
色は匂へど 散りぬるを・・・諸行無常
我が世誰ぞ 常ならむ・・・・是生滅法
有為の奥山 今日越えて・・・生滅滅已
浅き夢見じ 酔ひもせず・・・寂滅為楽
花はどんなに美しく咲き誇っていても、やがて必ず散ってしまう。この世で永遠に生き続けることができる人がいるのだろうか。全ての人は、現世と別れて一人で死んでいかねばならない。種々の因縁の和合により作られた無常の現世から、今日、目が覚めて抜け出して、この世を夢とは見ず、覚めた目で見つめていく。
「いろは歌」には、色即是空、空即是色の般若心経で言う人生観「この世の栄華栄達も無常である」が込められているようだ。「いろは歌」の解釈はさまざま存在して、確定した解釈はない。だから自分が納得できるように解釈をすればよい。そこに自分の人生が映し出される。
There is no facts, only interpretation.
ニーチェは「目の前に存在するのは事実ではない、どう解釈するかだけだ」と言った。仏教の世界では、その事実があるかどうかも夢うつつの物語だという。その中でどう生きていくか、それが人生の「いろは」として問われる。
図1 水門川沿いの「四季の路」
図2 自然に四季があるように、灯台にも四季の風景がある。人生の四季を終え、次の旅立ちの場所は、灯台である。俳聖松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅を大垣で結び、式年遷宮の伊勢神宮に参拝をするため、ここ大垣船町の港から舟で桑名に向けて旅立った。旅の終わりは、次の旅への出発(departure)である。
図3 大垣市船町港跡の川辺に立つ芭蕉像。
2017-08-17
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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