賽の河原に立つ地蔵菩薩
三途川の河原は「賽の河原」と呼ばれる。「賽の河原」と呼ばれる場所も、恐山を筆頭に、日本各地に存在する。賽の河原は、親に先立って死亡した子供が、その親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが、賽の河原で親の供養のために積み石の塔を完成させるが、完成する前に鬼が来て、塔を壊わしてしまう。何度、塔を築いてもその繰り返しになるという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済される。これらは民間信仰による俗信であり、仏教とは関係がない。
賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もある。それは仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したというのが通説である。中世後期から民間に信じられるようになった。
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賽の河原の石積とは、親の供養のための童子の願行ではない。それは己が成仏させられなかった己の願行である。「禁煙、禁酒をしよう、毎日散歩をしよう、勉強をしよう」と願をかけ、最初の数日間だけは実行するが、己の内なる鬼が、「そんなしんどいことは止めて、もっと気楽にしなはれ」と天使の声の如く耳元に囁きかける。今まで積み上げてきた禁煙、禁酒、散歩、勉強の継続という名の「石積の供養塔」を壊すのは鬼ではなく、怠惰な己である。成就させられず、途中で投げ出した供養塔の数を顧みると、我ながら情けない。幼くして死んだ子は、己が投げ出した三日坊主の象徴である。賽の河原の石積はあの世ではなく、己の「人生という大河」の両岸にある。挑戦しては、途中で投げ出した死屍累々たる山に手を合わせたい。
石積を壊す鬼を止めるのが己の内なる地蔵菩薩である。佛像は己の心を現す鏡である。己の心には鬼も住めば佛も宿る。心の鏡の中に、鬼と佛が交互に現れる。堕落に誘う鬼の時もあれば、救いの佛様の時もある。全て、己の心が決める。
自分の心に住むのは「魂(オニ)」である。己の心の「鬼」が、「云う」と書いて「魂」である。賽の石積みをしながら、それを壊すのは己の「魂」である。そんな魂を誰が育てたのか、自省したい。賽の河原の積み石の「地蔵和讃」は、子供に対する寓話ではなく、怠惰な大人への説法である。「三途川の河原の石積」はあの世ではなく、己の怠惰な心が作る現世の己の姿である。地獄に堕ちる前に、自分を救ってくれるのは、地蔵菩薩という名の自分である。菩薩とはひたすら修行道を歩く佛様である。残りの人生を精進して歩みたい。
図1 「鬼(オニ)」 松本明慶大仏師作
2017-08-17
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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