1. 仏心大器に命を懸ける
先日、松本明慶先生が総白檀の不動明王坐像(八丈大仏・約5m)を制作する過程を記録した『仏心大器』(NHK 2013年再放送)を見て感銘を受けた。その記録は、仕事とは何か、人生とは何か、を考えさせられた内容であった。明慶先生の手による目の彫りの工程で、図面も下書きもなしに、眼をノミで彫りにいく様は神業としか思えない。神業でも人間としての迷いを持ちながらの彫りの工程である。またそこにもドラマがあった。「今日の自分は最高の自分ではないかもしれない」と、自分を超える自分に遭うため、日を改め、時を待つ姿がそこにあった。彩色師の長谷川智彩師が、不動明王座像の目に瞳を描き入れる時、不動明王座像を見つめる彼女の眼には凄みがあった。
今まで不動明王像には、なにか近寄りがたいものを感じていた。しかしその眼差しは、怒りで慈悲を表していることを教えられた。その静かな怒りは上品なのである。その両方を表現するために、全神経を集中させている明慶師と長谷川智彩師の姿に感動である。
『仏心大器』(NHKオンデマンドでご覧ください。著作権の関係で画像が掲載できません。「不動明王座像 広島厳島 大願寺」で画像検索ください。
大佛の寿命は千年、人の寿命はせいぜい百年である。それゆえ千年の間、人の評価に耐える大佛を作るために、佛師は命をかけて刀を入れる。松本明慶先生は、(技のレベルを上げるため、ミケランジェロが第二の師匠になるかもしれないが)「それを学べるなら命に代えてもいい。(今回のピエタ見学を)絶対に無駄にはしません」とまで言いきる(NHKBSプレミアム 松本明慶ミケランジェロの街で仏を刻む『旅のチカラ』2013年)。人生の中で、一番多くの時間を費やすのが仕事である。人生において、命を賭けられる仕事に出逢えるのは、人生冥利に尽きる。それも生涯現役で働けられれば最高である。仕事は生活の糧を得る手段だけではない。
佛像彫刻の基本
「佛像彫刻をすると、皆さんはすぐお顔を彫りたがる。たとえば佛像彫刻で佛様の鼻を彫ろうと思ったら、まず回りを彫らないといけない。直接鼻を彫って高くしようと思ってもうまくいかない。周りを彫ると自然と、鼻が浮かび上がってくる。耳を彫る場合でも、周りを彫れば耳ができてくる。彫りたい箇所を直接攻めるのではなく、周りから彫っていく。口元を掘る場合も同じだ。これは根回し、段取りの仕事である。
松本工房の佛像は、概略のデザインを師匠が行い、細部は弟子が彫っていく。基本のお顔は師匠がすべて仕上げる。木の材料には、節や傷が必ずあるのでそれを避けて、材料取りのデザインを師匠が行う。これが難しい」(小久保館長)
仕事でも避けなければならない難所、ポイントがある。それを見極めて、弟子に細部を任せていく。人生も仕事も同じだと納得した。佛様のお計らいで、いい話を聞かせてもらった。求めるモノを直接攻めても相手は逃げていく。周りから、そして自分の内面を充実させて取り組むのが人生の正道である。これからの人生の旅を歩くヒントを得た。
芸術に必要な総合力 ―― 仕事も同じ
「佛像を彫るには彫刻の技量だけでは不十分で、仏教の知識、人体の知識等の総合知識力もないと、人に感動を与える本物は彫れない。なぜなら、佛様や布袋様などは架空の存在である。それを形にするには仏教の知識、人体の知識等の総合力が必要であるからである。時には密教の経典の知識も必要となる。
高名な某彫刻家がいて、実在する(モデルのある)動物や人物では優れた作品を残している。しかし、架空の存在である大黒天や七福人の彫刻は形がなっていない。それは彼の彫刻の技術は卓越していても、基盤となる総合知識がないからだ。たとえば、彼の作った布袋さんの顔には品と知性がない。これではこの布袋さんに相談しに行く気が起こらない。また座っているこの像は、もし立ったらこの足の太さでは、体を支えきれない不自然な構成となっている」(松本明慶師)
2つの写真集で作品を見比べると、その高名な彫刻家の布袋さんのお顔と松本明慶師の彫ったお顔には大きな差がある。その昔、人相学をかじったことがあり、その知識からみれば、その違いはすぐ理解できた。その昔、私はCNC研削盤の開発でNCソフト開発に携わった。その経験から、会計学のソフト開発でも、単にプログラミングの技量だけがあっても、使い物になるソフトはできない。会計学のソフト開発には会計学の知識と実務での総合知識が求めらる。それと同じことが、佛像彫刻の世界を始め、全ての仕事でこの基本は当てはまると、松本明慶師のお話を聞いて再確認した。
佛像の知識
・観音様の左手に持った蓮華の花の蕾が一枚だけ開きかかっている。これは悟りを開くこを象徴している。
・台座の上部にある葉形状のお皿は回転方向に波をうち、半径方向でも波を打たせて彫ってある。これには高度な彫刻技量が必要である。
・首の飾り、御頭から腕にふり下がる布を含め本体は一本彫りでできている。
首の飾りを彫るだけでも1週間はかかる。
・胸の飾りは、観音様の胸の上の空間を一本彫りで形作る。
・観音様の手は普通の人間より長い。人を救い包み込みために長いのです。
・西洋の彫刻は8頭身だが、佛像は10頭身である。
・佛像の身丈は白毫から足までの高さをいう。
日本の佛像彫刻伝統
最近は安い労働力を武器に中国、東南アジア製の佛像が出回ってきていて、日本佛像彫刻界の脅威となっている。その大半は部品を別体で作っている。それに対して日本の本物は、本尊一本彫りである。各部の継ぎ足し修正は、佛師の恥である。これは西洋の大理石の彫刻でも言える。全て一体の大理石から彫られている。西洋でも修正のため部分の継ぎ足しをすると軽蔑される。
観音様の見えない後ろ側の御頭の髪も、一本ずつ髪があるがごとく克明に彫刻してあった。松本明慶師は「松本工房の技術は世界一だ」と自負されていた。実物の技量と仏教の知識に裏づけられた彫像のありかたに納得させられ、心が洗われ、眼の保養になった。800年前の運慶・快慶の技術が、口伝により脈々と伝承されている。欧州の彫刻文化とは、一味もふた味も違う日本の佛像彫刻伝統に誇りを感じた。
人間技の素晴らしさ
私は、前職の近直では情報システム関係、IT関係、三次元CAD関係、NC金型加工関係の開発業務を担当した。その前の工作機械関係のときは通産省の外部団体超先端加工システムプロジェクトの委託研究に従事して、エキシマレーザ用のセラミックミラーを研磨する5次元研削加工機を設計した。それですぐに悟ったのは、5次元加工機でこの佛像をNC加工することは不可能だ、である。展示してある佛像には、手の細かい細工をしても加工が困難な部位が無数にあり、物理的に5次元加工機の刃具を干渉させずに加工はできない。しかし、人の神業にして初めて可能なのだ。英語と日本語を少し学んだ経験から、自動翻訳がコンピュータでは無理(大雑把な訳は可能)なのと合い通じるものを感じた。人間の技と頭脳は、いくらコンピュータや機械が進化しても、次元の違う神秘的な素晴らしさがある。
明慶先生の言葉
「私は歳のせいで視力が落ちて細かいところはよく見えない。
しかし、彫刻の時は、彫る場所の1点に集中させてそこを見るから見える。
周りまで全て見ようとするから見えないのだ」
「佛像は人の喜怒哀楽の心を受け止めてくれる器である。
大仏は人の心を受け止めてくれる大きな器である」
「佛師は美しい佛像を作る責務がある」
「人の寿命は80年、佛像(大佛)の寿命は1000年」
「時間に追われて焦るのは、自分が弱いからだ」
「佛像とは何か」を40年間余考えながら彫り続け、千年後まで残る作品を手がけている松本明慶先生の言葉には重みと凄みがある。
2017-08-09
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。
コメント