自分とは何か
自分とは何かを追及すると、己の心には佛も住めば鬼も住む存在であることに行き着く。神を住めば悪魔も住む。それを超越して自然と佛と一体になること、それが仏教である。それを目指すのが人間であることに行き着いたのが、弘法大師である。自分の運命は己に流れるご先祖の血が左右している。己の無意識の行為に、ご先祖様の姿がある。家系図でご先祖の後姿を見れば、己の血が分かる。善も悪もご先祖様の教えである。ご先祖は、人としてやってはいけないことの結末を、30年後に孫に見せつける。それは天網恢恢疎にして漏らさず、である。
人は佛性を持つ存在
東洋の思想では、人は全て佛性を持つとされる。悪人でも閻魔大王の前で、地蔵菩薩が弁護人として救済してくれるとの思想が生まれ、地蔵菩薩信仰が生まれたという。それゆえ東洋の宗教には救いがある。悪があるから善が映える。人間である以上、一度も罪を犯さなかった人はいまい。それに目覚めさせてくれるのが懺悔(さんげ)する心であり、ご先祖に手を合わせる環境である。ご先祖様は家系図内で人生劇場を演じている。そこには平家物語もあれば方丈記、リア王の物語もある。東西の宗教の差や宗派の違いは、単なる派閥争いの類で、手を合わせ自省することは、宗派を超越した行為である。
西洋での天国と地獄
西洋では神が完全無欠の絶対的存在であるので、不完全な人間は悪でしかない。最期の審判で、人は天国と地獄に行き先を振り分けられる。敗者復活戦はありえない。その最期の審判を凝視する姿がロダン作「考える人」である。地獄の前で最期の審判を見なくても、家系図を見れば、自分が考える人になれる。家系図を考えない人には悲惨な人生がある。2015年6月30日の新幹線内の焼身自殺事件がそれを象徴している。自分の考え方次第で、人生の螺旋階段を昇るのか、地獄へ下るかは、全て己の考え方次第である。
神とは人でなし
人は不完全な存在であるからといって、完全なる神を目指してはなるまい。それでは人でない存在を目指すこと、人でなし、になってしまう。あくまでも人間として欠点もありながら、それを人間味として角熟した人間に昇華した人生を目指したいと思う。それが自分の発見である。
図1 人間の成長 「修身」
図2 童地蔵 松本明慶師作
図3 考える人 大垣市興文地区センター前
2017-07-30
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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