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2017年7月 8日 (土)

母の思い出  4/4(改定)

車無しの生活

 両親は車の運転はしない。私も寮生活で、その必要性を感ぜず、入社後5年間は車無しの生活を送った。当時の新入社員で車を持っているのは2割程度であったが、5年も過ぎると、ほとんどの仲間が車を持つ。車関係の会社で車を持たないのは肩身が狭かったが、そのお陰で、初任給7万6千円で毎月、4万円の貯金をして、5年目で50坪の土地を現金で買った。土地の狂乱上昇が始まる直前のことである。両親がその土地の上に借家を建てた。それが車を持ってから、貯金が全くできなくなってしまった。とかく車を持つと出費が増える。それを見通していたためか、母は私に車を買うことを私にあまり勧めなかった。これでも生活が成り立ったのは、車産業が成長期の為、多時間残業での手当があったためである。また当時は仕事が趣味であった。土曜日に会社に行く(無償)のは当たりまえの感覚であった。

惠峰師の修行時代

 ほぼ同じ時期、馬場恵峰師は、京都の原田観峰師の元で検定課長として修行をされ、給与7万円であった。窯元を廃業する前は、恵峰先生は窯元の社長として多くの人を使い、社長として20万円以上を稼いでいた。それが給与7万円、残業代無しボーナス無し、深夜勤務はざら、週に1日は徹夜の生活に転落?である。家族に会うために長崎に帰ると3万円が消えるので、おいそれと帰れない。長崎で三根子先生が5人の子供をかかえて書道講師で頑張っていたので、生活がなんとか成り立った。恵峰師は2年ほどを頑張られたが、体を壊して長崎に帰られた。それと比べて、己の恵まれた生活に感謝である。当時はそんなことはさらさら思わず、製造業に比べてはるかに高い銀行員の給与をうらやんでいた。

銀行員が受ける落とし前

 後日談で、その給与の高さには恐ろしい裏があることを、65歳にして知った。ある都市銀行の元支店長の話である。その銀行の支店長だけ構成されるOB会では、その平均寿命は日本人平均より10歳も短い70歳である。つまり命を引き換えに高い給与をもらっていた。50前にして支店長になれなければ、出向である。支店長を辞めても手に職はない。技術職の私は、多くの経験を手にした。今にしてどちらが良かったか、自明である。

クーラなしの生活

 当然、母のいた実家にクーラはない。暑がりの私は、勤務地の自宅にはクーラを設置して贅沢に生活していた。たまに帰って過ごす実家の夏の暑さには、閉口したが、親にクーラを入れろと言う気がしなかった。これも母の無言の教育の賜物のようだ。父も同じ昔気質のせいで、死ぬまで、大垣の実家にクーラを入れることはなかった。

 その父が癌になり死期を医師から知らされたため、父の入院中に、父のいない実家にクーラを導入した(2002年)。葬儀の為、親戚の者が実家に集まった時のためである。父はそのクーラの恩恵を受けることはなかった。

南園堂とのご縁

 後年、そのクーラを、ご縁ができた南圓堂に寄付した。南圓堂は、奈良興福寺の日本で唯一の大垣にある別院である。毎年夏に、奈良興福寺から管主様以下6名の僧侶が来られ、大般若経転読法会が開催される。奈良では興福寺菅主様と接することは難しいが、大垣では、2mの至近距離で読経を聞ける。毎年8月の地蔵盆祭りには、興福寺の副菅主様が読経され、その後、町内の皆さんと一緒に食事をされる。奈良では近づくこさえ難しい方と食事を共にできたのもご縁であった。南圓堂のご本尊は不空羂索観音菩薩である。空振り無しで、迷える衆生を羂索で救う観音様である。迷える衆生である私も救われた。

母の死後の段取り

 母は仏教にはあまり関心がなかったが、葬儀や法要の件のしきたりにはうるさかった。母は10人兄弟の長女として、多くの家族の葬儀を取り仕切ってきた。母は私を親戚の葬儀へ連れて行き、親戚の非常識な振舞いを指摘して、私に人としてのあるべき作法と道を教えた。そんな母は、家を建てたとき、仏壇を置く空間を座敷に作っておいた。母の死後、そこに仏壇を入れた。

佛様のはからい

 それから20年して、松本明慶大佛師とご縁ができ、直々に白檀のご本尊様を彫って頂いた。2015年3月3日(火)、両親の13回忌、23回忌の法事は、私の仕事の都合と、参列する丹後と京都の従兄弟と叔母の都合で決めた。火曜日は大垣市立図書館が休館日であり、一番の決定要因であった。法事の前に、明慶先生に作って頂いた釈迦如来座像の開眼法要を彦根長松院住職にして頂き、仏壇に納めた。その約1ヶ月後、お墓の件で松居石材商店と話している時、松居氏から、その日は井伊直弼公の桜田門の変の法要の日だと言われて驚いた。私はそれに気がつかず、偶然に法事の日を設定した。彦根では3月3日は特別の日として多くの人が知っていて、各寺院では法要が執り行われる。大垣住まいの私は、全く知らなかった。その後の不思議なご縁の連続に、佛様のはからいを感じる。

三種の神器はなしで、在庫はあり過ぎた

 家には、車もカラーテレビもクーラも、3Cと言われた当時の三種の神器がなかった。しかしモノのない時代に育った母は、モノを大切にし、何でもしまい込むたちであった。お蔭でわが実家は大倉庫同然の状態になっていた。まるで何でも溜め込む、子供思いのエイリアン・マザーを彷彿させる。知人に聞いてみると、この世代の親は同じようである。親の世代は、それだけ貧しい時代を潜り抜けてきた。今のモノの溢れる時代とどちらが幸せであるだろうか、考えてしまう。 数十個の紙袋までキチント整理して、ためこんでいた。また100 個近いサランラップやポリバケツ、洗面器等までため込んでいたが、こんなに多く溜めてどうするの・・が息子のぼやきであった。

 大きなショッピングセンターが多くある、商業都市の大垣市では、店間の過当競争が激しい。そのため、客寄せの目玉として、1円の一ℓ醤油や10ケ10円の卵パックなどの広告が新聞のチラシによく載る。母そういう商品は確実に利用していた。父や私もこの買い出しによく付き合わされた。こういう目玉商品はお一人様1ケとなっている場合が多い。2回3回と行列を並んで手に入れるわけである。

母の遺品の後始末

 母の死後、便利屋に頼んで、不用品の整理として軽トラック4台分を家から出した。今は不用品の処分にもお金がかかる。その中で使えたのは、洗剤である。ただし液体洗剤は変質して使えなくなっていたが、洗濯用粉洗剤や固形石鹸は、母の死後20年たってもまだ在庫があり、助かっている。

 タオル・バスタオルに関しては、段ボールで新品が5箱もあったが、東日本大震災で、震災支援品の寄付として事務局経由で被災地に送った。

 困ったのが、カッターシャツの在庫である。当時、デパート等で安売りがあると私のために買い溜めをしていた。私が年に1kgのペースで順調に?肥満の道を突き進んだので、サイズが合わず着れなくなっていた。封も切っていない新品だが、一部変色もあり、処分に困ってそのままにしてある。流石の母も、その点の展望には抜かりがあった。しかし、母の思いはその在庫から伝わってくる。トヨタ生産方式から言って、在庫は罪である。ものない時代は、ため込むのが善である。モノ余りの時代は、在庫は罪である。時代の変遷とともに価値観の変貌を母の在庫から教えられた。

 私の学びは、生きていくための財産は、お金やモノではなく、生きていく(お金を稼ぐ)能力である。どんなに時代や価値観が変わっても、それがあれば生きていける。

 

図2 南圓堂(外観)

図3 南圓堂(内部)   2014年

図4 大般若経転読法会  2014年

図5 地蔵盆法要 読経は興福寺副管主様  2011年

 

2017-07-08

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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