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2017年7月23日 (日)

時間創出1001の磨墨智 411(磨墨修行)

墨を磨ること病婦の如く、字を書くこと壮士の如し

 

◆恵峰師の体験

 馬場恵峰師の小学生の頃のお話。馬場先生は先生の師匠から、実習で連続8時間、墨を磨らされた。一日墨を硯で磨っても磨っても、結局、墨がすれなかった。先生に、「全然磨れません」と言うと、「そうか」と言うだけでその日は終わった。その硯は、表面がツルツルで、墨が下りない硯であった。恵峰師は今にして、当時、8時間も墨を磨らされた意味が理解できたという。

◆硯の構造

 硯の表面を細かく見ると、ボンドといわれる結合材の粘土ベースの中に、ヤスリの役目をする石英が点在している。通常はその石英の尖った面が埋まっているので、柔らかい砥石でその結合部を削り取って、石英の尖った面を掘り起こしてから硯として使う。その処理がしてないと、いくら墨を磨っても、表面を滑るだけで墨が下りない。

◆墨と硯は人生の象徴

 墨を磨る行為は人生修行に象徴される。硯は世間を象徴し、尖った石英は自分への批判者、指導員である。墨は自分自身を象徴し、水は仕事を象徴する。世間という硯の面で、仕事を通して自分の至らぬ点を磨り減らして、自分の付加価値を出していく。その自分から磨り減らして出した墨で、世間様に対して、形ある貢献をする(字を書く)。人が持つ付加価値は、様々である。しかし、その付加価値を世間に問わないまま、墨の形のままで人生を終える人もいる。自分の至らぬ点を世間という尖った面が、批判、指導、援助をして、修正してくれる。人というダイヤモンドは、人を介してしか磨かれない。

 いくら力任せに墨を磨っても、世間が自分を磨く手段と考えないと、硯はツルツルしていて、墨は下りない。力任せに磨れば、机が揺れ(世間を揺さぶり、騒がせ)て、軋轢を生じなから墨が下りる。それは良い墨汁ではない。片側だけに偏向して墨を磨っても、自分の姿が片減りするだけ。形が美しくない。両側で均等に減るようにバランス良く磨る。人生修行そのものである。真っ直ぐに立てて磨れば力がいる。それは直球の人生で、効率が悪く、スマートではない。墨を45度、寝かせて、病婦の如く磨れば、力もいらない。軋轢も生じない。自分の修行として、黙々と静かに、自分を見つめ、時間をかけて墨(自分)を下ろす。それが磨墨修行である。修行と思えば、全ての事象を自分の成長の糧にできる。それが最大の時間活用です。ツルツルしているとは、世間との摩擦を回避し、自分の行為が上滑りしていること。修行として磨れば、当然、摩擦が生じるし、そこから多くの学びがある。摩擦なしに世間は渡れないし、自分の成長もない。

◆墨のキャパシティ

 書道も墨汁ですませば、一見、有効な時間は得られるように思える。しかし、墨と硯を自身の人生に置き換えると、それは借り物の人生である。墨でも数百円の墨から、昭和天皇が使われた墨(現在価格80万円)のように、その天性としてもてる能力、キャパシティは大きな差がある。そのもてる分を100%発揮して、その人の使命であり人生である。自分のもって生まれた才能を世間に問う、それが修行である。

 墨にも人にもキャパシティがある。その分を使い終わった時、人生が終わる。その墨で後世に何を残せるかが問われる。無駄にエネルギーを放射して、その墨を使うのも人生。しかし、それでは磨った墨が無駄になる。必要な時に必要なだけの墨を下ろして、そのとき求められている仕事をする。それが人生の使命である。

◆墨を磨る時間価値

 書道で、墨を磨るという無駄と思われる時間が、結局は自分を磨き、修行としての重要な時間になる。人は動物として生まれ、躾けと教育によって人間になり、世間の波に磨かれて、大人(おとな)になる。人間になっても、その世間での修行がないと、小人(ことな)のままなのだ。磨墨修行とは、自分の至らなさを実感する時間と言える。

 

図1 昭和天皇が使われたと同じ墨(馬場恵峰師蔵)

図2 墨の下りかた(45度が理想)

 

2017-07-23

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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