神様と信用金庫(信用金庫2)
祈り
祈りとは、神様への感謝と未来の「約束・契約」である。純粋で一方的な祈りは、修道院や俗世間と隔絶した修行者にのみに許される。
「・・を実現させてください、・・・にならせて下さい」等のお祈りは、一方的なお願いの押し売りである。本当の祈りとは、「・・・を実現するために自分は・・・をします」との自分の神様との約束・契約である。その契約内容を知っているのは貴方だけ。この誰も知らない小さな約束を守れない人が、「信用」という蓄財を築けるはずがない。毎日の祈りは、この信用を築く礎になる。この小さな約束を履行する積み重ねが、実社会での大きな信用を得る第一歩となる。自分自身の小さな約束を守れない人に、神様が願いを聞くはずもない。
何事もギブ・アンド・テイクが基本で、テイクだけの祈りは情けない。祈りとは「信用金庫」頭取の貴方が発行する「信用手形」である。
不渡手形を出した場合のしっぺ返しは大きい。この「破産通知」は目に見えない形で発行されだけに、気づいた時は手遅れです。その巻き返しには、信用を築く以上の桁違いの労力と時間が必要とされる。
祈り
祈るということは頭を冷静にして自分と対峙し、謙虚になり、反省することです。運命に振り回されるのでなく、自分の運命を正しく把握することがツキを呼び込む第一歩です。 翠真佑(みどりまゆ)『週刊 東洋経済 1989.02.25号』
南無阿弥陀仏
「南無」とは「お任せします」、「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏様に全てをお任せします」を意味している。助けていただくのも、そうしていただけないのも、全てお釈迦様が一番いいようにしてくださる。そう思って、お任せしたことに感謝の意を表して、手を合わせるのが「祈り」である。その全面委任のはずのお祈りに、勝手にお願いを追加するのは、論理構成が間違っている。ビジネスでは正しい論理構成が求められる。勝手なお願いは、祈り行列の割り込み行為である。その姿勢では神様の信用は薄い。「人事を尽くして天命を待つ」、」「天は自ら助けない人を助けない」、東西の宗教は同じことを教えている。
「祈願する:PRAY 〔動詞〕」
明らかに取るに足らないたった一人の嘆願者のために、宇宙の全法則が廃棄されることを願う。 A・ビアス著『悪魔の辞典』(1911年)
壊れ物
腹が立つと、物に当たりちらし、叩いたり壊したりする人がいる。それが会談中の場合にも、机を叩く等の場合に多々見受けられる。これは、された人間にとって実に不愉快な行為である。昔、私の部下でこの態度を取った輩がいて私の神経を逆撫でにした。そんな輩に限って立派な言葉を吐き、このお粗末な行動が、その人格に相応しい哀しい性として映る。
物を大事にしない人は、人や人との付き合いも大事にしない。物に当たることはその物事態は壊れないかもしれないが、人間関係に小さな綻びや、金属疲労のような心の内部疲労を生み出す。
物には魂が宿っている。「品物」は「ものを言わない」分,その仕返しは無言です。その仕返しは回り回って当人に降りかかる。物を大事にしない人が、神様(=お金、物、人脈)に好かれるわけがない。好かれない人に神様の信用はなく、幸運は寄って来ない。
人徳の貯金
人は叱られるだけ、まだ見込みがあると思わなければいけない。人は見切られると、注意さえされない。そのためにこそ、人徳の蓄積が重要だ。人徳の貯蓄と、「信用金庫」の貯蓄は正の相関関係がある。最近、管理職の立場で部下を見るとき、人徳のない部下には冷酷にならざるを得ないのは、人の好き嫌いとは別の次元の問題である。ただでさえストレスの溜まる宮仕えで、叱ると確実に不愉快な反応が返ってくる部下への注意は、億劫になる。会社全体のことを考えて、私はそんな人材へ労力は投入しない。それを考えるだけで確実に仕事の能率が下がる。だからこそ、叱られる資格があるのも大いなる人徳である。
管理職として注意せねばならないのは、部下を「叱る」と「怒る」との区別である。叱るとは、感情が入らず、部下の育成としての冷静な指導である。怒りは、単なる個人的な感情の爆発でしかない。だから叱られるのは、まだ見込みがあると喜ぶべきだ。その反対に、「怒られる」時は首をすくめ、怒りが頭上を通過するのを傍観していて、内容は無視すればよい。そんな上司は長くはないし、将来の出世もたかが知れている。しかし、その「たかが知れたはずの人」が偉くなった場合には、その会社が出会う悲劇は壮大である・・・。せめて、怒られたら自分の失敗を反省し、再発防止は図ること。
昇龍感孤(昇りつめた龍は、孤独を味わう)(出典不明)
龍とは古代中国では皇帝を意味する。人を指導する立場の人間は、この言葉を肝に命じるべし。この言葉は、トップが部下の諫言を謙虚に聞く態度が求められることも示唆している。単なる怒りは、自己の反省と謙虚さの欠如である。その結果を招いた一因は、自分の指示ミス、指導ミスではなかったのか? 少しでもその責任があれば、怒れないはでずある。怒れる資格のある人は、完全無欠の人か自己反省の出来ない人・・。
その昔、課内で上司より頭の切れる先輩が、そんな傲慢な上司に対してこれを実行し、怒られても平然としていたら、その上司から、「私が真剣に怒っているのに、君は顔色も変えず平然としている!」とまた怒られた笑い話がある。
その上司は、その後さらに偉くはなったが、結局恥ずかしい不始末をしでかして会社を後にした。そんな自己制御のできない性格のためと、本来偉くなってはいけなかったのに偉くなったため、後日の会社運営に消しがたい爪痕を残した。この人が反面教師の役目を果たしてくれたせいか、私は部下を怒るのが億劫になってしまった。怒る前に、上司として反省してしまう自分が情けない。そんな情けない私にしたこの人には、感謝と怒りが沸きおこる。
「人は誰でも易者になれる」とは、本田技研の創業者・本田宗一郎氏の言葉である。あからさまに言わなくても、人はその言動・顔つきを見れば、おおよそのことは分かる。またアメリカ建国の父リンカーンは人事の決定の際、「人は40歳になったら、顔に責任を持たねばならない」と明言し、ある人物の登用を退けている。40年も人間稼業をやっていて、志ある人物とそうでない人の顔つきが、同じであるはずがない。人徳・信用・志の有無は、別に星占いなどをしなくても、自ずと雰囲気的に伝わってくる。それが識別できないなら、自分自身を反省しなくてはなるまい。だから社会で生きていくために、ほんの少々の人相学の知識があると申し分ない。人相学は星占いより、はるかに有効な情報を与えてくれる。顔は信用金庫のバランスシートである。
肖像画美術館
1994年夏に、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館群の中の肖像画美術館を訪問した。米国の歴史に残る業績をなし遂げた偉人の顔をじっくり一同に眺めれる美術館で、たかが肖像画であると思っていたが、入館するまでその面白さはしょうぞうがつかなかった。
神坂次郎著『だまってすわれば 観相師・水野南北一代』(新潮社1988年)
「〔飽食時代〕への警告と教訓にみちた一代記!」がこの本のキャッチフレーズです。波瀾に満ちた観相師を、人相学を通した目で巡る歴史物語である。極めて面白い。
人相
新興宗教教団の信徒の顔をつくづくと見るに、能面のような張りのない顔付が多いのが気にかかる。何か人生に目的(善悪は別にして)のある人は、それ相応の燃える何か感じられる。少なくとも宗教にのめり込むと、自身の意思・責任・感情は棚上げして、神頼みの他力本願になるせいであろうか。
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