あなたは文書テロリスト?
文書は、情報伝達の飛び道具。
情報は、情けの報せ。あなたの文書は、無情?
情報を伝達しても、相手に達していますか?
クライテリア CRITERIA(規準に則って)
テクニカルライティングの要点は「クライテリア」である。先ず方針ありきで、その基本方針・考えが明確でないと、書類作成も仕事でも何事も進まない。米国ビジネス社会では、「読みにくく、内容不明瞭な文書を、上司が読まなくても何ら責任がない」とスチーブンソン ミシガン大学教授は断言する。
米国ビジネス社会では管理職が、受け取った書類を扱う平均時間は、30秒だ。日本社会では、出した書類を読まなかったら、その読まなかったことが責任とされる社会である。そういう点で、日本のビジネス書類には緊張感がない。それに対して、米国ビジネス社会では書類を読んでもらうため、クライテリアを明確にして文書デザインをしている。
文書デザインという概念は新鮮な響きがある。論理構成のない、なぐり書きされた書類やメール文は、文書のテロである。マネージャには日に何通もの書類、電子メールでは日に100~200通が舞い込む。論理構成のない書類は、相手の時間を奪う泥棒である。テロ文書は家庭ある管理職の帰宅を遅くし、管理職にストレスを与え、パワハラの遠因となりかねない。
文書を如何に「設計」するかは、その基本概念の明確化(クライテリア)、書類の概略構想、スケッチ、詳細記述等と、工業製品を作るのと同じ設計プロセスが要求される。多民族社会では以心伝心が通じない。また個室が常識の米ビジネス環境では、文書、書類が最大の意思伝達ツールである。電子メールが普及した現代では、文書での意志伝達の明確化が要求されている。訴訟社会でPL問題も抱えている米国社会では、その書類に書かれた言葉が大きな責任問題にも発展する。そのためにこそ論理的な文書の設計が必要とされる。
欧米でのレポートには、自分の考えと、根拠ある推奨(主張)の付加が必ず求められる。テクニカルライティング演習の課題で、あるレポートを書かされた。その設定・質問には単に「解説を述べよ」とだけとしか記述がなかったので(何度も確認して)、その通りに書いたら、マセィズ教授からケッチョンを食らってしまった。早速、自信を持って確認したはずの設問について、教授に噛みついたが、教授からは「日本ならその解説だけで許されるが、米国人なら常識的に自分の考えと、推奨(主張)を入れてレポートを作成する」と諭されてしまった。
間違っていようがいまいが、自分の考えが重要視される米国社会である。これは前記のクライテリアにも通じる。こういう事例は、なかなか日本では体験できない。自己主張を殺した日本の報告書に慣れていた私には、驚きの体験であった。
最近の米国政治家の過激な発言は、まず恫喝として言うだけは己の意見として展開するのが本能だ。それを割り引いて言い分を聞かねば、言いなりにされる。彼らは狩猟民族で、日本は農工民族である。
文書のオーディエンス(読み手)
テクニカルライティングは、英語の勉強でなく、文書の論理構成の学習である。文書には、相手に何かの行動を期待し、実際に行動してもらう目的がある。欧米では文書の書き方によって、然るべき行動がなされず、スリーマイルス島原発事故のような人類の危機や、スペースシャトル・チャレンジャーの爆発による人命の喪失、国家の威信の喪失まで招く事例が存在する。
米国スリーマイルス島の原発事故のドキュメントの事例紹介では、米国における文書・報告書・提案書の記述方法が、人類の危機に発展する深刻な事例として紹介された。米スリーマイルス島の原発事故では、事故数カ月前に、その前兆の報告書を技術者が上司に提出していた。しかしその報告書が読みにくく、かつ論文調に書いてあったため、責任者はその報告書を無視した。その結果がスリーマイルス島の原発事故につながった。それが裁判になって、然るべきスタイルで提案書を書かなかった技術者の過失が問われ、結果として、その上司の管理職は無罪になっている。
この事実は、日米の価値観の相違を表している。日本人の私はこの見解を無責任だと思うし、プロならもっと自分の仕事に責任を持てと言いたい。しかしここには米国社会の個人主義、個室を中心とした会社運営形態で、書類だけで情報交換をされる仕事方式が背景にある。その書類の記述方法で論理的に記述する重要性が出てくる。それが欠如した書類は、情報通達ができない欠陥商品である。
そういう点で日本社会は幸せかもしれない。詳細に書かなくても、然るべき状況、立場のわかる人達がそれ相応に解釈して仕事が運ぶ。「後はよろしく」で。またそこまで言わなくてもと言った社会慣習である。しかしこれは、欧米では通用しない慣習である。
曖昧文書が与える損害
冗長で不明確な報告書のため、1通につき余分に5分間必要と仮定すると、年間損害を、50万円と試算した。しかし、欧米の現実はもっと大きなロス・悲劇を生む可能性がある。
100円/分 × 5人 × 10通/年 ×100人/課= 50 万円/年/課
教養ある英語
講義を担当したスチーブンソン教授、マセィズ教授は英語がとてもうまかった。お陰で、私の英語力でも授業にはなんとかついていけた。知性のある人は、相手を見て使うべき単語、語彙、スピードを選択する。しかし教養がないと、相手お構いなしの機関銃のような英語を話し、少々英語ができるぐらいでは、全く理解不能となる。両教授の英語を聞いて、教養のある英語とはかくの如し、と認識した。思わず教授に、「英語がお上手ですね」と言ってしまった。これには先生も苦笑い。
日本語でも、日本語が下手な教師がいる。それは相手のレベルを考えない話し方・教え方をする教師である。何事も相手に合わせた情報伝達が基本である。我々は教養ある日本語を使っているかを自省したい。言葉を使うことだけが、コミュニケーションではない。
図1 武道としての情報設計
図2 ミシガン大学での授業風景・スチーブンソン教授(右側中央が著者)
図3 ミシガン大学での授業風景・マセイズ教授
本原稿は1994年ミシガン大学夏期テクニカルライティングセミナー体験記の再校正版です。
久志能幾研究所 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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