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2023年2月21日 (火)

経典を読む、哲学書を読む

 

 この40年間、私はほぼ毎日、読経で朝のお勤めをしている。1年365日×40年で累計14,600回の読経である。40年間も読経を続けて、やっと仏教の説く哲学がおぼろげに分かってきた。

 私はこの10年程は、ほぼ毎日写経をしている。写経と言っても毎日2行だけである。約10日間で、一枚の般若心経の写経が完成する。そうしないと続かないと馬場恵峰先生に教えられた。般若心経を全部写経すると優に1時間はかかる。毎日2行だけなら5分ですみ、継続できる。

 読み、書くから、体に仏教の教えがしみ込んでくる。その目的は、自分の生き方を探すためである。私には仏教の経典は哲学書である。

 釈迦は、来世が有るとも無いとも言われなかった。現世での修行だけを説かれた。釈迦が死ぬ時も、弟子達には「怠るな、だだ精進せよ」だけを言い遺された。

 だから仏教の経典は極楽浄土に行くためのおまじないではない。それを理解すると、新興宗教に騙されることはなくなるだろう。

 仏教の経典を読むとは、自分の人生を考えることだ。自分が体験し、経典に照らして考えて歩んだ自分史がオダブツ教の経典である。私は自分自身の経典を書いている。

 

仏教

 哲学とは、生の存在、死の意味と時間を考える学問である。そういう意味の哲学を説いた宗教は仏教だけである。

 仏教の経典とは、釈迦が人生の中で考え、悩み、実践した認識を弟子たちに説いた説教を、後世の弟子たちがまとめたのが経典である。

  (石原慎太郎著「人間の一生とは、なんだ」『プレジデント2022.4.1号』)

キリスト教

 聖書はキリストの一代記である。聖書は、人間に対する愛、虐げられたユダヤ人への共感を説いている教えである。そこには哲学はない。後からギリシャ哲学を援用してきて、神学が出来上がったにすぎない。

  (石原慎太郎著「人間の一生とは、なんだ」『プレジデント2022.4.1号』)

イスラム教

 イスラム教は、唯一絶対の神(アッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下したとされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。その教えは、法律、道徳、倫理を含んだ社会規範である。その絶対的存在として神が存在する。神は死後の天国地獄の行き先を決めるだけで、生前中の善悪への罰則は、イスラム教の経典が決める。それは神の仕事ではない。

 イスラム教は砂漠を中心として厳しい環境で生まれた宗教だから、その教えの経典の内容は厳しい。また現実的である。だから「目には目を歯には歯を」という教義である。

 ユダヤ教やキリスト教と同じ一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじるとともに、全ての信徒がウンマと呼ばれる信仰共同体に属すると考えて、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじ、それが維持されるための教えである。

 一般には法律と見做される領域まで教義で定義している。イスラム教では、信者の内心は問われない。教義では、正しい行いをしているかを問うだけだ。天国に行けるかは神が決めることであるので、一般の司祭はそれには関知しない。その行為が、死ぬまでは、人間の間で問題にされないなどの点で、仏教やキリスト教徒は大きく異なる。

 つまりイスラム教の教えは、社会を運営するための法律を含めた道徳的な社会規律の教えである。そこにも人間としてあるべき哲学はない。

 この項、wikipedia「イスラム教」を編集加筆

 

2023-02-20  久志能幾研究所通信 2621  小田泰仙

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