その時になって後悔しないの?
今日、2020年10月5日、遠戚の人の33回忌の法要を執り行った。彼は身寄りがなく、法要をする親戚がなく気の毒で、供養として法要を住職にして頂いた。参列者は私一人である。
彼も仏になって33年である。33回忌とは、あの世で一段、位が上がって仏道を精進する。彼も静寂な世界で吾が親族を見守っている。
彼は孤独死であった。彼も死ぬときは無念であったろう。だれでも死ぬ時は一人である。誰でも、死は必然で、いつ訪れるやも知れぬ。それも己の歳が、後期高齢者資格に近づけば、他人ごとではない。私は癌を罹患して、余命宣告を受けた身である。死は明日のことなのだ。その法要の読経を聞きながら、その間際に、やっておけばよかったと後悔しないか、自問した。
生とは
生は死とセットで生命体である。生だけがあるのではない。
死があるから、生が輝く。
どんな生命体、職位、職業にも、寿命、任期がある。
死なない生命体はない。
永遠に今の状態が続くと思うのは、傲慢である。
多く人は死を忘れている。
忘れるというよりも、それに蓋をして見ないようにしているだけ。
死を考えるとは、生を考えること。
人生の目的
何のために生きているのか。
いつまで惰性で働くのか。
それで回りが幸せになるのか。迷惑ではないのか。
あと、何年生かされると思っているのか。
残された時間はそんなにも多くない。
残り少ない人生で、やりたいことがないのか。
死の床での後悔
その時になって、今が後悔しない生き方なのか。
残り少ない時間を、人に迎合して生きて、その時に後悔しないのか。
何のために、ギャンブルに手を出すのか。
何のために殺生をするのか。
それで何が残るのか。
何のために、群れるのか。
命を削る狂気の液体なのに、なぜ酒を飲む。
己と妻子を癌、認知症にするタバコなのに、なぜ吸う。
一日、無為に過ごすことがその間際で後悔しないか。
その趣味が自分の人生にどういう付加価値を与えるのか。
人は裸で生まれて、裸で死んでいく。何も持って逝けない。
名誉も、金もモノも女もこの世に置いて逝く。
死を前提に人生を考えないから、その間際で後悔する。
今まで、畜生界で生きてきても、最期の時間くらいは、天上界は無理として、せめて人間界で生きたいと思う。
今日、静かなお寺のお堂で生死を考える良い機会を得た。法要にお金がかかったが、それに見合うご縁を頂いた。
馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集 「報恩道書写行集」(久志能幾研究所刊)より
2020-10-05 久志能幾研究所通信 1773 小田泰仙
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