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2020年9月 7日 (月)

磨墨知620 神様は上から見ている

 天知る、地知る、汝知る。

 自分が何をしているかは、天は観ている。己も知っている。地獄の閻魔大王も閻魔帳をつけながら見ておられる。見ている人は観ている。自分の行動を一番、よく知っているのは自分である。その努力の結果は、自ずと決まる。自分を助けるのは自分である。ン十年後の閻魔大王様の審判の場で、胸を張れるようにしよう。

 

臨終

 38年後の薄れ逝く意識のなかで、108年間の出来事が、走馬灯のように走り逝く。そこに後悔の念を起こすまい。やって失敗した事例に後悔はない。よき想い出である。しかしやらずに過ごした計画には、大きな後悔が付きまとう。臨終の枕もとで、満足した出来事が浮かべば、良い人生だったと満足できる。素晴らしい人生ではなかったかも知れないが、素晴らしく楽しむ生き方をした、と自分を褒めてあげられるようにしよう。

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 上図は2013年9月28日8:55、大垣市立図書館開館前に玄関の前で、時間を惜しんで参考書を広げる中学生の姿である。学期末試験の直前の先週土日は大勢の学生(約50名)が開館前の玄関前で行列を作っていた。160席の学習室が満席であった。しかし今日の9月28日は3名の学生が待っているだけである。試験が終ったので多くの学生は現金なものである。先週の大混雑が嘘のような1週間後の土曜日の朝の風景である。

 

 この方を「観自学菩薩」という。菩薩とは涅槃・真理を求めて修行中の仏の姿である。いい姿を見せてもらった。この子達が将来、私の年金の原資である税金を多く納めてくれるだろう。年金菩薩様でもある。感謝。私も生涯現役で頑張らなくてはならぬとの決意を新たにした。

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  馬場恵峰書

2020-09-07 久志能幾研究所通信 1737  小田泰仙

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