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2020年7月19日 (日)

地蔵菩薩が持つ大きな器を目指して(改定)

地蔵菩薩のお役目

 お地蔵様は正式には「地蔵菩薩」という偉い方である。地蔵菩薩は、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となるため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救うお役目の仏とされる。現世ではお地蔵様として子供の守り神として祭られている。地獄に出張したときは、お役目として閻魔大王の役も務めるとされる。

 菩薩とは、仏教において成仏を求める(如来を目指す)修行者を指す。菩薩は修行中ではあるが、人々と共に歩み、教えに導くことで、庶民の信仰の対象にもなっている。

 

裁判官 兼 弁護人

 六道(天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄)で、地獄に堕ちるのは生前中に善を積まなかった不心得者である。多くの積善を心がけた方は、閤魔大王に呼び出され閤魔帳を覗いて判決を受けることもなく浄土に赴かれる。

 地獄に堕ちてしまえば救いようがない。地獄の向かう亡者を裟婆と地獄の境界で、「地獄の十王」が亡者の生存中の業の履歴が記された閤魔帳により、どの地獄に送るかを評定して判決する。その裁判で被告の弁護をするのが地蔵菩薩である。現代の裁判員裁判制度に比べればはるかに人間的で救いがある。

 最近の裁判員裁判制度での死刑判決の多さが何か異常であるし、その死刑判決のお役目を一般市民に押し付ける制度はいかがなものか。この地獄論を調べて疑問を感じた。

 十王の中の裁判長が「闇魔大王」であり、闇魔大王は地蔵菩薩の化身であると言われる所以である。それ故、判決を下す裁判長と被告の弁護人が同一人物となるので無罪が期待され、もう一度裟婆に戻れる可能性があることから地蔵菩薩信仰が生まれたと思われる。この信仰は民衆の地獄に対する恐怖観念が貴賎を問わずあったことも一因とされる。

 

仏教の組織図

 こういう仏の組織体系を創造する先人の智慧には驚嘆する。今の新興宗教の教祖は足元にも及ばない。会社組織の概念の創作と同じである。日本の地獄絵は、8世紀ごろに東大寺の線刻画に登場している。地獄は全て人間が作り出したものだが、その恐怖心をうまく活用して道徳心を子供に植えつけたのは智慧者である。私も幼いころ、祖母から地獄絵をお寺で見せられて恐怖心を味わった思い出がある。

 1300年も経って、今の新興宗教界で「脱会すると無間地獄に堕ちるぞ」と脅す教団があるのが、お笑いである。地獄に堕ちるには、それ相応の罪を犯さないとその資格が無い。まして無間地獄に堕ちるには、親殺しをせねばならぬ。原始宗教では、それが詳細に決まっている。それを新興宗教へお布施の大金だけで罪消しになるわけがない。

 

エピローグ

 2011年頃、私は某経営研究会に入会した。その年度の総会後、コートの取り違えのご縁で、その経営研究会の元会長と親しくなり、彼より某新興宗教を勧められた。相手が経営研究会の元会長だから信用して、試しに入会してダメならすぐ退会すればよいと安易な気持ちで入会を承諾した。

 ところがその教団をネットで調べたら、トンデモない教団であることが判明した。入会金は38万円だが、後日、なんだかんだで1千万円ほどせびられることが、年間行事や教団総本山の建設費から逆算された。入会儀式も秘密の儀式で怪しいのだ。

 また退会しようとしたら、信者が大挙して自宅に押し掛けてきて、「退団すると無間地獄に堕ちるぞ」と自宅まわりで大騒ぎをするという。押しかけてくる信者も、そうしないと信仰の真剣さを疑われるので、必死である。相互監視が厳しい掟がある。

 また会員の葬儀があると、教団が葬式を全て取り仕切って、香典は全てもって帰ってしまうという。

 後日、その経営研究会のメンバーに聞いたら、役員の多くがその教団に入会していて、役員からメンバーに勧誘するので、断りづらいとの声が多くあった。手口が巧妙である。

 入会寸前で、仏様の啓示(自宅内で小指の骨折)があり、それからいろいろと調べて、結論としてオウム真理教のような教団だと断定した。入会を断わり、事なきを得た。

 

清濁併せ吞む

 正しいことが総てではない。正義だけを追及すると、人は阿修羅にならざるを得ない。終生戦わねばなるまい。人は、殺生を止めれば、生物として生きていけない。採食主義者でも、穀物の命を奪わねばならぬ。植物にも命がある。人は、他の命を奪って生きていかねばならぬ。戦争になれば、敵を殺さねば、銃後の妻子が殺される。

 お釈迦様は、他部族が攻めてきたとき、素手で立向かわれたが、お釈迦様の部族は目の前で殺された。その無力感から、お釈迦様は王子の座を捨てて、出家されたという。

 人間界で生きていくためには、清濁併せ吞まねば、生きていけない。その姿の象徴が、地蔵菩薩である。地蔵菩薩は全てを受け入れて頂ける。

 その地蔵菩薩でも、その衆生の全てを助けられるわけではない。その衆生と縁がなければ助けるに助けられない。その縁とは、地蔵菩薩に手を合わせたかどうかだけである。地蔵菩薩に手を合わる人とは、自分を無にして来世・現世を考えられる人間のことだ。ご先祖、親の恩を考えられる人間である。強欲に目が眩んで、回りが見えなくなった衆生を地蔵菩薩は救うわけにはいかない。

 

祈る対象を具現化

 仏像は祈りの小さな器である。拝むにしろお願いするにしろ、空気の前では手を合わせづらいもの。その祈る対象を具現化したのがお地蔵さんの姿である。祈るとは、自分を無にすることだ。冷静に自分と対峙することだ。日に一度は、手を合わせて自分に向き合うと良い。

 

子供の守り佛

 私は毎朝の散歩道の途中にある地蔵菩薩像の前で「子供たちを守っていただきありがとうございます。守っていただいた子供たちを私もお守りします」と手を合わせている。それもあり、子供たちの未来を奪う輩と喧嘩も辞さない。子供たちが日本の未来を背負ってくれる。私の年金を支えてくれる(?)。子供たち教育予算をつまみ食いする輩(小川敏を筆頭とした大垣行政)を摘発するのが年長者の義務である。

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 松本明慶先生作 童地蔵菩薩像 楠  高さ13センチ

 

 この子は、東京の展示会(大佛師松本明慶佛像彫刻展)にお友達の200人と一緒に上京した。私はその中からお見合いをして、この子に決めて大垣の自宅に来てもらった。200体のお地蔵さんは、同じように見えても微妙に一人ひとり違い、この子と決めるのに苦労をした。(2013年10月)

 松本華明さんのお話しでは、年々この童地蔵菩薩像の出来栄えに対して、明慶さんの要求レベルが上っていて、なかなか検査が通らないとか。松本工房の童地蔵菩薩像は日々レベル向上だそうです。

 

2020-07-19 久志能幾研究所通信 1671 小田泰仙

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