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2019年7月31日 (水)

「生前火葬から逃走」10年目の総括

 前職を定年退職して、その後の10年間を総括する。10年前の定年1年前に、定年延長せず、退職することを決断した。今、それから10年が経過した。その後の総括をすると、よくぞ定年延長なしを決断したと自分を褒めてやりたい。その時、定年後にやることを決めていたわけではない。

 

もし定年延長していれば

 もしそのまま定年延長をしていれば、会社人間の私は、以前の生活習慣、食生活のままでは、病気になって早く死んでいただろうと思う。前の会社の勤務状況では、心労からスキルス性の癌になった確率も高い。

 私の元部下は、松下電器に転職したが、その後の人員削減の嵐に巻き込まれてストレスからスキルス性胃癌になり55歳で亡くなった。

 また当時の生活習慣を継続していては、心筋梗塞、脳梗塞になった恐れもある。当時の会社で、一緒に仕事をした仲間が24人も次々と亡くなっている。多分、会社のブラック性のストレスの影響であろう。

 

仏様のメッセージ

 今年、私は今年、癌を患い手術をうけた。定年後のストレスの少ない生活のせいで、遅延性の癌であったのが不幸中の幸いであった。定年延長で、従来のままの生活をしていたら、スキルス性の癌に罹った確率も高かった。癌になったお陰で生活習慣を見直すことができた。病気は神仏からの啓示である。即死の病気(心筋梗塞や脳梗塞、交通事故死)でなければ、病気とは執行猶予のついた懲役刑なのだ。悔い改め、生活を改善しなさいとの仏様のメッセージである。

 

生前葬

 会社で定年を迎えて会社に残ると、使用済み放射性物質ならぬ、いわば「使用済み人材」の扱いを受ける。定年退職を「生前葬」だと定義する定年小説『終わった人』(内館牧子著)まで現れている。私は、そんな会社の物差しで測られたくない。私は還暦後の自分の道を探した。まだ棺桶に入れられるのは早い。会社に残れば「生前火葬」である。生涯現役が天の思し召しである。

Photo

 内館牧子著『終わった人』講談社

 

生前火葬

 定年退職の生前葬後に続いて、会社に残ると生前火葬である。生前火葬では魂が焼かれる。生前葬が終わったのだからと、部長、課長の肩書は無用として剥奪され、無地の名刺で、白い経帷子の派遣社員扱いの制服を着せられる。建前上は、部長、課長待遇であるが、職制表からは抹殺されて、立場がない。

 そして自分より能力の低い部下が、上司僧侶として引導が渡される。派遣社員扱いの処遇で働く地獄界の火の海に落とされ、そこで自分の自尊心と誇りが燃やされ灰にされる。

 派遣社員からも、職位権限がないので軽んじられる。2,3年も務めると、焼きもちの火よりも強烈で、長時間の火葬に嫌気がさす。

 満期の5年の火刑に堪えられる人は稀である。よほど面の皮が厚いか心臓に毛が生えているか、家のローンが残っているかでないと続かない。

 その定年後の5年間で、すっかり精力、気力が燃やされて、魂の抜け殻が残り、生前火葬が終了する。気骨ある骨も残らない。あとは徘徊の人生が待っている。

 職人の世界でも、辣腕の料理長として長年君臨していても、定年になって元の職場で働けば、若造から「ジジイ」扱いされ、「おいジジイ、この皿洗っとけ」である。「ジジイ」ならまだましで、「クソジジイ」ではプライドも消滅である。

 

逆縁の菩薩の教え

 私は定年後の元部長が、昔の部下の課長の下でヘイコラとしている卑屈な姿を目の前で見て、定年退職する決断をした。その元部長は逆縁の菩薩であった。定年後の5年間で仕事は同じ、給与は半分以下で働けば、精力と気力を使い果し、その後の起業がほぼ困難になると確信した。定年後の第二の人生の立ち上げには体力も気力もいる。その大事な時期を生前火葬で灰にされてはかなわない。生前葬が終わったら、その後は、「人生の主」として歩みたい。

 

生前火葬の損益計算

 定年後、会社に残って働けば、元基幹職でも給与は1/3に激減する。それでも年金よりは倍近い年収である。定年後の計画がないならそれも可である。しかし年間1,800時間の自由時間が奪われる。年金生活に対して、プラス150万円程を稼ぐために、1,800時間の自由時間を引導僧侶の上司に貢ぐことになる。150万円を1,800時間で割ると、ファーストフード店やコンビニのアルバイトの時給以下となる。会社にとっては、経験豊かな人材を使用済み人材として格安でこき使える。

 自分の老計・死計を考えると、定年延長は、正しい選択ではないと判断した。それで、私は早期入棺・生前火葬から逃亡した。

 誰にでも守るべき自尊心がある。それを放棄するのは奴隷の人生である。還暦まで生きてきて、そこまで落ちぶれたくはない。私は上司の悪魔のような絡め手の引き留めを振り切って、焼かれる前に逃亡した。生前火葬からの逃走後に、多くのご縁が生まれた。生前火葬されていれば、そのご縁も生まれなかった。

 

定年後の取り組み

 定年後、国家資格を取ろうと猛勉強をした。毎日、図書館の学習室に9時から17時まで籠って、大学受験の時より勉強をした。本来なら受かって当然のはずであったが、試験に受からないので、脳の異常(記憶力低下)を疑い、調査を始めた。ネットで病気を推定して、名医を探して、九州・久留米の先生を探り当てた。そこで病気を特定して治療に取り組み、本来なら心筋梗塞、脳梗塞になる寸前であった病状を改善した。要は血管内に溜まったプラークが原因であった。これも、国家資格を取る決断と真剣に受験勉強をしなければ、出会えなかったご縁である。仏様が、試験の不合格という啓示で、病気を治す取り組みを始めさせてくれた。

 

人生の主

 人生は、自分が主として、生を全うしたい。「主」とは、王座に燈火である「、」を灯すと書く。自分の人生が、人生の奴隷であってはならない。

 王座に座る己は、自分の体の主人であるから、その状態を見てあげるのが上司の勤めである。自分は人生劇場の主人公なのだ。自分の体の不調を早く感知して、対応する。それで自分の人生劇の主役の務めが全うできる。

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  馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」(久志能幾研究所刊)より

 

2019-07-31   久志能幾研究所通信No.1278  小田泰仙

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