人生曼荼羅 福の神・貧乏神
人生を彩る神に福の神・貧乏神がある。己の人生曼荼羅で、貧乏神だけはお断りとの人生はありえない。どちらも自分を自分たらしめる佛との出会いである。
老
「老」には「結ぶ」という意味がある。親子が生物の発展の形である。物事は結ぶことで生成発展する。結婚しかり、合併しかり、異質なものが結び合うことで新しいものが生成される。それを「化成」という。ニンベン「イ」は背の伸びた若者、「ヒ」は腰の曲がった老人の姿である。親子が結ばれて新しい価値が生まれる。それが「化」の意味である。
福の神
自分とは異質の人が福を運んでくれる、育ててくれる。時に、人の本気度を試すために、福の神が貧乏神の全く逆のコスプレで来るときもある。老心は百面相である。老心は異質なものの昇華体である。だからその外観に騙されないようにしよう。人間界の投影が神の世界・佛の世界がある。神の世界はコスプレの世界である。神佛には、裕福も貧乏もない。それを決めるのは人間の欲というフィルターがかかった目である。
貧乏神
来る人が貧乏神に見えるときは、目が曇っているとき。貧乏神に出会わなければならないご縁が生じたに過ぎない。類は類を呼ぶ。自分自身が貧乏神の臭いを発散している時である。友人の言い訳が鼻につくとき、それは自分がそうしてはならないと佛が教えてくれている。それは人生曼荼羅の一過程である。そんな出会いの佛が両界曼荼羅に表される。その佛に出会って、自分はどう対応したのか、それが人生で問われる。
人生禍福が糾える
禍があるから福に繋がる。人生の禍福の合計は、人生と言う長い尺度ではトータルゼロである。不遇な時期は人生の貯金の時と割り切り自己充実を図るべし。人生曼荼羅は禍福あざなえる人生道である。何もない平穏な人生では、砂漠を旅するようなもの。行けども行けども、砂漠ばかりの風景では寂しかろう。それでは人生曼荼羅が白黒印刷になってしまう。波乱万丈な人生も一興である。人生経験をカラフルにしてくれたと思おう。
逆縁の菩薩との出会い
相田みつを氏は学生の時、喫煙の濡れ衣を着せられ、不良学生と烙印を押されて軍事教練の教官から徹底的に虐められた。結果として軍事教練の単位が、相田氏だけとれず落第となり、大学に進めなかった。当時、軍事教練の単位がないと進学できない時代である。氏はそのため寂しい青春を過ごすことになり、ある縁で在家ながら禅の道を学んだ。それが後に書の道に進む縁に結びつく。大学に進んでいたら、学徒動員で戦死していた可能性が大きい。氏はこの軍事教官を「逆縁の菩薩」と呼んでいる。なにが人生で幸いするか、人知を超えた天の計らいである。この軍事教官は結果として、相田みつを氏には福の神であった。
因果応報
人によって事故に遭遇したり、病気に罹ることもある。人から見れば貧乏神に取りつかれたようなものだ。冷静に考えてみれば、それは偶然ではなく、事故に会うめぐりあわせがあり、病気になる因果があったのだ。仏様は、今後、最悪の状態にないようにと、考える時間を与えてくれたのだ。それを不運だと考え、行動を改めないから、幸福になれない。その不幸を糧に生活姿勢を改めねばならぬ。
次頁の板書「福の神・貧乏神」は馬場恵峰先生の随筆である。現在88歳の道を歩く先生が(2014年11月)、この随筆で人生を考えるヒントを述べてみえる。
この板書を下書きなしにそのまま書いてしまう恵峰先生に驚嘆。それには50年間の書道人生の曼荼羅が存在する。
馬場恵峰先生書 福の神・貧乏神の随筆。和歌の巻物の収納箱の蓋に書かれている。
『吾が人生の師天王』 p136 より
2019-03-29 久志能幾研究所 小田泰仙
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