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2019年1月 8日 (火)

霊信として『「言志四録」51選訓集」』

 年末の12月25日に河村義子先生がご逝去されて、弔意の1週間ブログ休載で、馬場恵峰書『佐藤一斎著「言志四録」51選集」』(小田泰仙編 久志能幾研究所刊 A4版、64頁2800円)の出版案内を控えた。

 この本は、12月25日付けの出版であるが、最終校正で誤字脱字が見つかりその修正で、3日遅れの12月28日に、印刷完了本が印刷会社より自宅に届いた。本来、25冊は私宅、25冊は他所、50冊は九州の馬場恵峰先生宅に直送されることになっていたが、手違いで私宅に25冊以外に、恵峰先生分の50冊が届いた。それで大慌てで恵峰先生宅に転送した。

 出来た本を見直すうち、12月30日になって、河村義子先生の命日がこの書の出版日と気が付き愕然とした。これは偶然という人もいるが、私の菩提寺の住職様の意見では、馬場恵峰先生へ寂滅のご挨拶として、私の家経由で、私の代わりに九州に行ったのだと言われた。手塩かけて出版した本は、私の子供である。偶然と見えることも、実は必然のことだと住職様に言われた。河村義子先生と馬場恵峰先生は直接の対面はないが、お互い私の私費出版本を通じて旧知の仲であった。

 「神秘的な体験をするには、雰囲気と心の準備が必要だ。」(水木しげる著『水木しげるの娘に語るお父さんの戦記』より)

 

私の使命

 今、振り返ると河村義子先生に対する私の使命は、河村先生の遺徳を記録として残すことだと悟った。

 カメラ歴50年、文章道歴50年、科学工業英語検定1級所持(一級は日本に500人もいない)の技を持ち、ピアノに憧れを持って40年を過ごしてきて、64歳でグランドピアノを購入した人間が、河村先生とご縁ができたのは仏縁である。「人は出合うべき縁に、早からず遅からず出会う」とは、森信三先生の言葉です。

 そんなつもりはなかったが、記録をひも解くと、河村先生に関する写真はこの5年間で8600枚ほど撮影した。そのうち河村先生が写っているのは数%であるが、先生の周りの人を含めて、自然体の良い写真を多く撮影できたと思う。そのお陰で共演された音楽家達ともご縁ができた。先生に関するエッセイ(A4で4頁の作品が30通余)、演奏会のビデオが5本である。このブログ休載中に整理をして、ご遺族に贈るためにBRディスクに収めための編集をした。

 

河村義子先生の病気

 河村先生は、5年まえに病気が見つかり、手術をすると後遺症が残りピアニストとして活動できなくなるとして、延命手術を拒否され、最期までピアニストとして生きる道を選ばれた。このことは、葬儀場に掲げられたご子息の挨拶文で初めて知った。思えば、私が先生に出会ったころである。

 私は、河村先生が覚悟を決め、最後までピアニストとして生きたいとして、死病と戦っているのを知らないから、自然体で写真が撮れ、エッセイが書けたと思う。先生の死病を知っていれば、人間ができていない私は構えてしまい、良い写真は撮れなかったと思う。そのためエッセイも自然体に書けたと思う。私は、先生が死病と戦っていることを知ってはいけなかった定めだと改めて感じた。それも観音様のご意志で、運命である。

 今思うと、河村義子先生の言葉の節々に、死を予告する言葉があったが、鈍感な私は気が付かなかった。それに気が付けば、「それでは、もう小田さんではない」と、義子先生の親友に慰められた。それがせめてもの慰めである。まだまだ人間ができていないと、反省のしきりである。

 

出版計画

 今回のブログ休載中に「写真集 河村義子先生を偲ぶ」(解説は英訳併記)、「河村義子先生の想い出」(エッセイ集)、「ウィーンにかける六段の調べ」(英訳、ドイツ語、併記)を出版する計画ができた。これが河村義子先生への私の追悼と鎮魂の書となる。

 

2019-01-08 久志能幾研究所 小田泰仙

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