行列再現の何故? 「朝鮮通信使」2
彦根藩では、朝鮮通信使の一行は宗安寺に泊まり、大垣藩では、全昌寺に宿泊した。彦根市は、通信使400年記念で2007年10月8日、「彦根市国宝・彦根城400年祭/日韓交流フェスタin彦根」で200人が参加して、正使:呉榮煥(駐大阪大韓民国総領事)と井伊家第18代当主の井伊岳夫氏と国書交換をした。
今回、大垣市は朝鮮通信使の400年記念が終わって11年余も経つのに、市政100周年記念で、朝鮮通信使の行列を再現した。その行列の時代検証は、デタラメの再現であった。それは後述する。
何故?
何故、朝鮮通信使が終わって300年余も経ち、通信使400年記念でも11年も経つのに、今頃になって「朝鮮通信使行列」を大垣10万石まつりで再現したのか。彦根市の宗安寺には、朝鮮通信使の資料や絵、像、宿泊部屋などが保存され、常時見学ができる。しかし、大垣市はその痕跡や資料が、彦根市に比べれば皆無に等しい。
推測
下衆の勘繰りで言うと、韓国の大垣の友好都市との関係である。韓国の友好都市の関係者を厚遇すれば、大垣市の税金で、議員や市の関係者は、韓国の友好都市に公費で出張を名目に遊びに行ける。今の韓国との関係で、友好都市契約を結ぶのは異常である。現在の日韓の政治状況では、だれも韓国の都市と友好関係を結びたいとは思わないだろう。日本人で反韓感情を持つ人は78%に上る。そうなったのには訳がある。大阪市は、韓国移民者が多いロサンゼルス市との友好都市の関係を、慰安婦像の問題で、取り消した。
だから何らかの政治影響力が韓国からかかったか、大垣市政と韓国との下のつながりがあるのだろう、と下衆の勘繰りをしてしまう。
「朝鮮通信使」とは
朝鮮通信使とは、江戸時代、将軍の代替わりや慶事などに、朝鮮王朝の外交使節団が、朝鮮国王からの国書を持って来日した使節団をいう。起源は室町時代にはじまり、慶長12年(1607年)以降1811年までの約200年間に12回、朝鮮から、学者、文人、医師などを含む300~500人規模の使節団が日本を訪れた。その使節団が日本文化に影響を与えた痕跡は、現在、祭り等の限定したことでしか残っていない。
朝鮮通信使の位置付け
しかし、この朝鮮通信使をめぐっては、多くの解釈がある。両国の関係は対等と朝貢という相反した考え方である。通常、両国の関係が対等であれば、国書への回答となる「返書」が送られる。幕府からの返書は残っていない。通常、返礼は、対馬藩が代行したという。
現在残っている国書「朝鮮国王李昑国書」に対する徳川家重の国書が日本から発給されて、通信使によって朝鮮に持ち帰られたが、それは残っていないようだ。また朝鮮への「日本通信使」があったわけではない。
11回ある朝鮮通信使の内、8回までが、徳川幕府の代替わりに対する襲封祝賀伝達である。
江戸幕府は朝鮮通信使の来日については、琉球使節と同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を常用しており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそう呼ばれていた。だから、対等ではなかったとみるのが妥当と思う。
今回のユネスコ世界遺産登録は、両国が対等であったという前提で、日韓の妥協の産物として共同で登録申請がされた。そうでないと韓国が納得しなかった。
旅路
この使節団の旅は、朝鮮の漢陽(現在のソウル)から、江戸までの2,000km弱に及ぶ。その旅の期間は10ヶ月近くに及ぶ。海上では、日本側から歓迎船などで大船団となり、陸上では日本側の警護人1,500人を合わせると2,000人にもなる大行列となった。その行列が、ハンソン、釜山、対馬、壱岐、下関、広島、神戸、大阪、京都、彦根、大垣、名古屋、静岡、小田原を経て江戸に行った。当時、日本で朝鮮通信使行列は、約20年に一度なので、一生に1度か2度しか見れず、街道には多くの人が押し寄せた。
彦根の宿泊地
「朝鮮通信使」行列が通り、宿泊した彦根市には、宿泊宿・宗安寺に「朝鮮通信使」の関係資料や絵、像が多く展示されている。
宗安寺は、江戸時代に朝鮮通信使が来日する際、高官の宿泊所に指定されていた。この寺には朝鮮の高官像とされる「絹本著色朝鮮高官像」(江戸時代)が保存されている。この絵は、朝鮮通信使によってもたらされたと伝えられている。紗帽(うすぎぬで作られた帽子)を被り、朱色の袍(礼服)を身におおい、二羽の白鷺の文様とみられる胸背(刺繍の装飾)と鼈甲の帯をつけており、その種の肖像画として貴重である。
大垣の宿泊地
朝鮮通信使は、彦根の次の宿泊地・大垣で全昌寺に宿泊した。宝暦14年(1764)の11回目の朝鮮通信使が宿舎とした記録が「朝鮮人来朝大垣宿舎之図」として残っている。それによると、水門側に3艘の艫立船を浮かべて船橋を架け、船橋の両袂から中央、表門から玄関までの間に提灯が2列に配置された。朝鮮通信使の前宿泊地が彦根であり、一行の到着が夜にあたる為、夜間の誘導灯とした。宿泊先の全昌寺には、見物人や医学問答、詩文の贈答などといった交流のため、日本の学者や医者、知識人が訪れ、文化交流が行われた。
正徳元年(1711)の8回目の朝鮮通信使来日時には、全昌寺で医師の北尾春圃が、朝鮮医師奇斗文と朝鮮人参や治療法について筆談をした。その筆談は、「鶏鳴」(明け方)まで及んだ。春圃は、その時の筆談をもとに『桑韓医談』を、正徳3年(1713)に上下2巻で著した。
享保4年(1719)の9回目の朝鮮通信使来日時にも、春圃は、通信使に会見し、息子の春竹らを従えて、通信使と詩文の贈答を行っている。朝鮮通信使の大垣通行時には、大垣藩の領民が、大垣城下の警備に駆り出された。
宝暦14年(1764)の11回目の朝鮮通信使が全昌寺に宿泊したおり、書記として随行した金退石が、医師江馬春齢(江馬蘭齋の養父)に七言絶句を贈った。
朝鮮通信使は、慶安元年(1648)から続く大垣まつりにも、影響を与え、竹島町には朝鮮山が存在していた。現在は存在しない。その御頭だけが、大垣民俗資料館に展示されている。
ユネスコ登録の中韓の陰
2017年に韓国通信使がユネスコ世界遺産に登録された。中国・韓国の偏向思想の委員が多いユネスコ委員会である。韓国関係でメリットがあればすぐ採用されるようだ。
それで偏向した歴史観の南京事件も2016年に登録された。「中国が登録申請の際にユネスコに提出したのは、資料の一覧と、資料を保管する7カ所の公文書館名を記しただけの目録だった。申請資料として目録が提出されるのは通例だが、多くは詳細な内容を記載しており、日本の場合は「何の資料が棚の何段目にあるかなども含めて詳細に記している」(外交筋)という。中国側の資料のずさんさが改めて浮き彫りになったといえる。(産経ニュース 2016.1.10 05:00より)」
2017年のユネスコ世界遺産登録では、第二次世界大戦中に「命のビザ」で多くのユダヤ人難民を救った岐阜県出身の外交官、杉原千畝に関する資料「杉原リスト」は見送られた。このためユネスコでの登録には、政治的偏向が垣間見えて、ユネスコからの脱退を提言する声もある。アメリカは脱退している。
2018-10-14 久志能幾研究所 小田泰仙
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