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2017年8月18日 (金)

笑顔は出世のパスポート

佛頂面

 佛頂面とは(佛の頭頂に宿る広大無辺の功徳を佛格化した尊の恐ろしい相に例えた語)無愛想な顔を言う。佛とは、純真無垢な赤子のような存在である。佛頂面とは、心の様をそのまま外に出てしまう赤子のような心の表れである。成長した大人なら、品ある笑顔で己の心の醜さをお化粧として隠すもの。それが出来ないのは小人の証。そうしないと、未成熟の人たちで構成される人間関係がギスギスする。未成長の己を人様の前に出す行為である。佛頂面は裸で人様に会うのと同じである。そんな人に幸せのご縁が訪れるはずがない。

 

他部へ応援に出てのご縁

 1982年ごろ、新研削盤の開発途中で、別部署の組立て機開発プロジェクトへ数ヶ月間、応援で出されることになった。新研削盤の開発後、多くの引き合いでテスト研削をするのだが、なかなかお客さんが買ってくれず、課内で一番余裕があると思われた結果もようである。

 プロジェクトは当社製品の全自動組立てラインの開発である。私はポンプの弁のフィルター自動組みつけ機の設計を任された。網状のフィルターを打ち抜き部品に圧着する組立て機である。研削盤設計とは勝手が違い、過剰な強度の機械を設計して、課長に笑われて苦労をした。今では良い思い出である。

 当時、その部に新入社員が二人配属されていて、その面倒を見るかたちとなり、気持ちよい環境であった。二人の新入社員は、非常に対照的な姿、性格であり絶妙のコンビでもあった。二人とも仲がよく、仕事は良くやってくれた。性格的に几帳面な子と豪快な子であり、小柄と大柄の体格で、よくこんな絶妙のコンビができたものと微笑ましかった。当時は、前の部署では一番下っ端であったが、ここでは二人の上であり、人を指導する体験となった。

 

30年後の因果

 その後30年が経ち、設計にはあわなかったような豪快な子が、現在は営業の部長に出世している。明るい性格の子は得をするのを目のあたりにした。この子(50も過ぎた元部下をつい「この子」と言ってしまう関係)は、それ以来、毎年、年賀状を送ってくれる。会社生活で一番長い付き合いの部下でもある。私が、定年を迎えた後、名古屋の料亭でご馳走をしてあげた。明るい子とは話をしていても楽しいものである。私がクソ真面目で、あまり明るくない性格であったため、羨ましくなる。部下は自分の鏡である。

 当時、夏の課の旅行行事があったが、前の職場の研究開発部ではこんな行事はなかった。上司が変わるとこうも職場雰囲気が違うものと感心した。応援期間が終わり、惜しまれながら(?)元の職場に引き戻された。二人の新入社員は残念がってくれた。

 

笑顔の価値

 ガガーリンが宇宙飛行士に採用された理由の一つが「笑顔」であった。宇宙から帰還した飛行士の笑顔が魅了的なほうが、国民は誇らしく思うだろう。アメリカを含めた世界に向け、その映像は送られた。(P135)(岡野宏著『一流の顔』幻冬舎 2005年)

 

 「人の顔色は、いわば家の門口のようなものだ。広く人に交わって自由に客を招き寄せるには、まず門口を開放して、玄関を掃除し、ともかくも人をきやすくさせることが肝要であろう。人と交わるのに、顔色を和らげようとせず、かえって偽善者の風を学んで、わざとむつかしい顔つきを見せるのは、家の入口に骸骨をぶら下げ、門の前に棺桶をすえつけるようなものだ」・・福沢諭吉『学問のすすめ』第17編「人望論」

 

 上記の件は、頭では分かっていても、現実に笑顔もままで過ごすのは難しい。実際に実行できる人が教養人である。母からは、「家を出たら7人の敵がいると思え」と教えられた。弱い人間が壁を作り、自己防御で難しい顔をするのだ。今まで自分は弱かったのだ。還暦を迎えてやっと顔に笑顔が出てきたようだ。自分の成長が遅いことは、2013年に自分史を書いて思い知らされた。

 当時、元の部署のT係長がやって来て、機械関係の雑誌の原稿を書いてくれと言ってきた。人を応援に出しておいて原稿書きはないだろうと、むくれたが、皆が忙しく対応できないのでと懇願された。上司の依頼なので、しぶしぶ書くことになる。結果として、自分のやってきた記録を公式記事に残せてよかったと今にして思う。来た縁は断ってはダメである。

 

図1 夏の課の旅行で(上高地)

 笑顔の中込さん(左端)と腕組して苦み走った顔をしている私(左から4人目)。これではダメですね。

 

2017-08-18

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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