「桜田門外ノ変」の検証 (9/25)前後裁断
(7)危機管理の基本遵守
当日の朝、途中で襲撃があることを知らせる投げ文が井伊直弼の元に届けられた。しかし、彼は護衛を増やせとも、側近にもそのことさえ伝えなかった。なぜ、警護の人間に伝えなかったのかの疑問がある。幕府のきまりで護衛の数が決まっていた。幕府のトップがそのきまりを破るわけにはいかなかった。また彼は武芸に自信があり、まさか首を取られるとは思わなかったのだろう。
しかし大名が理由はともあれ、首を取られるという失態をすると、御家とり潰しとなる決まりがある。そうなれば家臣たちが路頭に迷うこととなる。そんな危険を考えなかったのは、トップとして危機管理意識が希薄であった。
敢えて、水戸藩の関係者に自分を襲撃させれば、水戸藩をつぶせる口実ができると思ったのかもしれない。自分の身を危険に晒せても、お国のためになるならそれも良いとの考えがよぎったかもしれない。あるいは、米国との通商条約を結び、反対勢力をある程度押さえたので、自分の役割は終わったとの達観があったのか。彼は死に場所を求めていたのかもしれない。彼は、人殺しの嫌いな人間である。この時代、お殿様が家臣を手打ちにする事件はざらにある。しかし、井伊直弼は家臣を手打ちにしたことはない。これは当時の風習からいくと希有なことである。その井伊直弼公が、安政の大獄では鬼となった。私憤では人を殺さなかったが、公憤では赤鬼となった。安政の大獄での処刑者数、処分者数は、徳川幕府始まって以来の規模である。それへの自虐があったのか。
前後裁断
雨の予報があれば、傘の準備をするものだ。経営の神様の松下幸之助は、経営の極意として、「雨が降ったら傘をさす」と言っている。つまり当り前のことを当り前にしろと言っている。危機管理上、経営の基本として、井伊大老は危機管理の基本を、古い慣習や制度に囚われて遵守できなかった。そこに彼の保守派としての限界があった。もしくは、彼は死に場死を求めたのかもしれない。明治維新となり、西南戦争を終えた久保利通卿も、全く無防備な状況で襲撃され暗殺されている。暗殺の恐れは十分に予見されていたが、彼も特別な護衛をつけなかった。これも自ら死に場所を求めたとしか解釈のしようがない。両巨頭とも、独裁的な権力で国を思うが故に、騒動元を断固たる決意で押さえて幾多の血を流した。その後冷たさが、無意識に働いたのかもしれない。彼は禅の修行を積んで、悟りの境地として、全てを天命として行動をしていたようだ。襲撃を受け死ぬのも天命、業務改革を推進するのも天命だと悟っていたのでないかと思う。
彼は「ただまさに今なすことをなせ」との禅の思想で行動していた。組織として自分を護衛する藩士達がいる。自分の使命は幕府の業務改革遂行で、自分の身を守ることではない。それは部下を信用して任せるべきである。彦根藩の赤備えの勇猛さは、武田軍団の血を受け継いでいる。そんな優秀な藩士達に余計な情報を与えなくても、対処してくれるはず。そうでなかったら、自分の指導が悪かった。それで自分が死ぬなら、それも天命だと。自分の死が、日本の将来への礎となるなら、それもよい。そんな考えがあったに違いない。彼は生死を超越した位置で、日本の未来を考えていたはずである。
2017-08-09
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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