「桜田門外ノ変」の検証 (11/25)DNAの伝承
豊田佐吉翁に受け継がれたDNA
江戸時代の鎖国から開国への転換は、井伊直弼大老の決断に起因する。時代は幕末の騒動を経て、明治維新を迎える。開国して西洋の文化が入ってきて心をときめかせた若者が、三河の片田舎の豊田佐吉である。佐吉はスマイルズ著『自助論』(中村正直訳『西国立志編』)に啓発された。同書には、紡績機械や動力織機などの繊維機械を考案した発明家についての記述があり、彼の向学心を高めた。自助論は、当時のベストセラー福沢諭吉の『学問のすゝめ』と並び、明治時代の人気書籍であった。1885年4月には「専売特許条例」が公布され、発明の奨励とその保護が打ち出された。佐吉は、これに強い関心を持ち、織機の発明を志すきっかけになった。佐吉の母が内職で夜遅くまで手織りの織機に苦労をしている姿に発奮し、母を助けようと、自動で機織機の矢を動かす発明に没頭した。それが豊田式自動織機の始まりである。その特許を英国に売却した資金で、トヨタ自動車が生まれる。
『自助論』
『自助論』 は、300人以上の欧米人の成功談を集めた成功哲学書である。私も、本書を佐吉の歴史も知らずに、訳者竹内均氏の生き方に感銘を受けて、竹内氏の訳本だからと読んだ。本書は「桜田門外の変」の前年1859年に刊行された。そして明治になり開国で、豊田佐吉が手にする縁が生じた。その100年後、私もその本を手にした。
訳者の中村正直は、江戸で幕府同心の家に生まれ、昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となる。幕府のイギリス留学生監督として渡英して、帰国後は静岡学問所の教授となる。教授時代の1870年(明治3年)に、『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版して、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉著『学問のすゝめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも彼である。
『学問のすゝめ』
咸臨丸で渡米した福沢諭吉は、見聞した知識で『学問のすゝめ』を著し、1872年(明治5年2月)初編が出版された。当時の若者を鼓舞して、新しい国造りに貢献した。共に井伊直弼大老のDNAを受け継いだと言える。明治維新直後の日本国民は、封建社会と儒教思想しか知らなかった。本書は欧米の近代政治思想、民主主義、市民国家の概念を説明し、儒教思想を否定して、封建支配下の無知蒙昧な民衆から、近代民主主義国家の主権者へと意識改革することを意図した。また日本の独立維持と明治国家の発展は知識人の双肩にかかっていることを説き、福澤自身がその先頭に立つ決意を表明している。本書は、明治維新の動乱を経て、新時代への希望と、国家の独立と発展を担う責任を明治の知識人に問い、日本国民に広く受容された。近代の啓発書で最も売れた書籍である。最終的に300万部以上も売れ、当時の日本人口は3000万人程だから、国民の10人に1人が買った計算になる。
トヨタ自動車とのご縁
そのトヨタ自動車が今あるのは、明治時代初期に豊田佐吉翁が自動織機の発明に没頭し、豊田式自動織機の特許の売却資金で、新事業への展開したことにある。豊田佐吉翁は、トヨタ自動車創業者の豊田喜一郎氏に、「俺は織機で御国に尽くした。お前は自動車で御国に尽くせ」と言い残した。企業・産業を起こすものは、志が必要である。単なる金儲けが目的では、目指す次元に差がでる。御国(公共)に尽くすためには、材料、設計、工作機械、生産技術の全てを自前で国産化しないと、当初の理念が達成できないとの考えから、車作り、人作り、会社のしくみ作りを始めた。そこに今のトヨタ自動車の礎がある。
国の産業の発展を目的に、全て自分達の手で開発したことから、トヨタ生産方式、カンバン方式、現地現物といった日本のモノづくりの原点、手法が生まれてきた。実際に手を汚し、苦労をしないとモノつくりの技は手に入らない。日産からはそんな開発の苦労話から生まれたノウハウの伝承は聞こえてこない。企業DNAの影響の恐ろしさは、50年後、100年後に影響する。
日産との薄縁
1933年に日産の鮎川義介氏は、自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)よりダットサンの製造権を無償で譲り受け、同年12月ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立する。設備も図面も設計者も無償で譲り受けた。鮎川義介氏は、車で金を儲けるため、一千万円を持って渡米して、図面、中古の工作機械、生産技術の全てを輸入し、アメリカの技術者をも連れて帰り、車の生産を始めた。豊田喜一郎氏の志とは対照的である。そして半世紀が経って、その志の差が表れて、日産がルノーに乗っ取られる因果となった。
トヨタと日産の二つの初代乗用車を並べてみると、技術は未熟ながら純日本文化の繊細な造りこみをした車と、欧米式のがさつな車つくりの差が一目瞭然である。(図2、図3)
その結果が、主力車であった「青い鳥(ブルーバード)」を籠から放ち(2001年製造中止)、蓄えてきた信用と財産を切り売りし、短期で利益が出たように見せかけ、自社のみが儲かる体制つくりに専念する。そして二人で育てた「愛のスカイライン」はメタボ化して、昔の熱烈な「愛」は冷めてしまった。30年前の私も、ケンとメリーのスカイラインには憧れていた。そこには開発者である桜井眞一郎リーダーの情熱があった。ルノーの拝金主義経営に染まった日産からは、その情熱は消え、魅力的な車が生まれなくなった。それでいて日産のゴーン社長の年俸は10億円に迫り、平均役員報酬は1億円を超え、トヨタのそれの数倍もある。それに対して一般社員の平均給与は、トヨタよりも低い。ゴーン氏はそれを「恥じることはない」と恥さらしに豪語する。何かおかしい。
拝金主義の腐臭
一部の人だけが富を独占して幸せになり(本当に幸せか?)、99%の人が不幸になる社会を、我々は目指してきたのだろうか。この構図は共産中国の党幹部だけが、富を独占している姿に似ている。グローバル経済主義=拝金主義社会である。豊田佐吉翁、豊田喜一郎の顔と鮎川義介氏、ゴーン氏の顔を比較すると、人相学的に興味深い。ゴーン氏の顔は典型的な狩猟民族の顔である。鮎川氏の人相は前者に比較して人徳に薄いように見える。著作権の関係で顔写真を掲載できないので、画像検索で顔を比較して考えてください。
DNAの断絶
2001年から8年間、自分は技術者教育に携わり、新人・中堅技術者の教育の一環として、トヨタグループの産業技術記念館の見学を引率した。この技術記念館は、豊田佐吉が明治44年に自動織機の研究開発のために創設した試験工場の場所と建物を利用して建設された。この記念館は、展示機械が全て動く状態で展示されている世界最大の動態博物館である。
図6は新会社の新入社員を引率して、遠路3時間の産業技術記念館にバスで行った時の記念写真である。自分にとって若手技術者の成長を祈念した最後の引率研修となった。「余分な事は教えるな。技術だけを教えればよい」という成果主義に染まった上司の役員・部長と教育方針が合わず、ある理不尽な事件を機に、私は閑職に飛ばされた。後任者の怠慢で、この講座は消滅した。教育の成果は10年後であるが、拝金主義者の目は、そこまで見ていない。近年は、日産、三菱自動車、タカタ、VWと、自動車業界は創業者の志に復讐されている企業が続出している。
この産業技術記念館は、全ての人に開放されており、近隣諸国からも多くの人が団体で見学に訪れている。ここに見学に来て学んでいる若者の企業に、前職の会社が段々取り残されていくようで、寂しく情けない限りである。
図1 『西国立志篇』 トヨタ自動車75年史HPより
図2 トヨタ初の純国産乗用車トヨダAA型 1936年 (復元車)トヨタ自動車HPより
図3 日産初の乗用車ダットサン12型 1933年(日産HPより)
図4 豊田佐吉翁の伝記ビデオを鑑賞 (産業技術記念館)
図5 豊田式自動織機の実演に見入る中堅技術者
美人説明者に見とれている?(産業技術記念館)
図6 最後の見学会
2017-08-18
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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