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2017年7月30日 (日)

生前葬、棺から起きて逃走す(改定)

 会社で定年を迎えて会社の残ると、いわば使用済み人材の扱いを受ける。定年退職を生前葬だと定義する定年小説『終わった人』(内館牧子著)まで現れている。そんな会社の物差しで測られてたまるかいと、私は会社を離れ、還暦後の自分の道を探して歩いている。まだ棺桶に入れられるのは早い。棺桶からの逃走も人生である。会社に残れば生前火葬の憂き目にあう。生涯現役が天の思し召し。それは自分が決められる選択肢である。

人は3度死ぬ

 人生での一度目の死は、会社の定年であるが、人生の使命が終ったわけではない。二度目の肉体的な死までは、かなりの時間がある。三度目の死は縁あった人たちの記憶から、その人の記憶が無くなる時だ。その時を少しでも伸ばすための仕事が、定年後のやるべきことである。それからが本当の人生である。それは自分で全て取り仕切れる仕事である。その仕事に嫌な上司の干渉はない。その時期に完成させた仕事が世に長く残るとは、その人が永遠に生きることだ。その作品を見る度に、後世の人がその人に思いを馳せる。その人の作品が目の前で語りかける。そんな風に命が永らえる作品を残して旅立ちたい。だから定年後だからと、おちおち棺桶で寝ていられない。

第二の人生

 第二の人生で、何に己の命を捧げるのか、今までの38年間の修行をどう生かすのか。単に命の糊をしのぐために働くのか。第二の人生は、お金の為ではあるまい。今まで培った能力を世のために使うべきではないのか。その仕事を探して5年間をさ迷って、瓢箪から駒みたいに出版業という鉱山に突き当たった。IT技術の発展が、私みたいな素人でも出版業に携われる時代に変化した。幸せなことだ。金脈ではないのが残念だが、後世に残す仕事してはやりがいがあると認識した。今は手さぐりで鉱山を掘っている有様である。

 50年間、趣味で飛行機の離着陸写真を撮り続けていたら、ピアニストの河村先生から演奏会の写真撮影の依頼がきた。飛行機の着陸時の一瞬を切り取ってきた技が、音楽家の演奏中の顔の一瞬を撮る技に役立った。何が人生で役立つか、分からないものだ。朝起きてまだ息をしていれば、まだまだやるべきとはあるとの仏さまのメッセージである。

姨捨山風習

 自分という大地を耕し続けないと、使用済み核燃料の処理の問題のように、使用済み徘徊老人、寝たきり老人になって、家族や社会のお荷物になる。やることがなく無為に生きている人が溢れる時代である。ショッピンモールに行けば、朝から初老の多くの人が、ベンチに座り込んで、時間をつぶしている。仕事を選ばなければ職はいくらでもあるのに。そんな生活をすれば、病気にもなりがちだ。寝込めば、誰かが介護をしなければならない。介護に疲れて妻が夫の首を絞め、子供が介護の親を殺す時代である。親の介護のため子供が会社を辞め、そのため妻との喧嘩が絶えず、生活が崩壊することもある。己の体の維持管理の怠慢がわが子を不幸のどん底に突き通す。認知症のかなりの部分が、自身の快楽(タバコ、美味飽食、運動不足、痴呆TV番組へ没頭)に起因する。それが家族を地獄に追いやる。昔の姨捨山風習がまだ合理的であったかもしれない。昔の貧しい時代は、そうしないと家族全員が崩壊してしまう。姨捨山風習は貧しい時代の生きる術であった。それを豊かな時代の我々は非難をできない。

この世の地獄

 戦前の日本は貧乏で、昭和東北大飢饉(1930年、1934年)で姨捨山、子供の間引き、娘の売り飛ばしが横行した。それが遠因で戦争の時代に突入していく。今の豊かな時代はまだ40年間ほどである。その現実を忘れて現代人は飽食、放蕩を尽くしている。それは天が仕掛けた落とし穴である。その天罰が、ガン、認知症、贅沢病(痛風、高血圧、肥満)、精神の荒廃の増大である。

 寝たきり老人の介護は使用済み核燃料の扱いのようである。寝たきり老人を施設に預け、家族の誰も「放射能」を恐れるかのように近寄らない。自分が寝たきりになってベッドに縛り付けられ、食欲のないのに胃瘻をされて、生かさず殺さずにされたら生き地獄である。意思表示もできず、寝返りも、かゆいところもかけない。死にたくても自分では死ねない。自分なら餓死での自殺を選ぶが、ベッドに縛り付けられればそれも叶わない。

 スウェーデンでは寝たきり老人はごくまれで、人権無視の延命治療はあまりされていない。胃瘻やベッドへの拘束は虐待扱いとされる。先進国のはずの日本がこの医療体制を執っているので、スウェーデンからは呆れられている。

 生涯現役が家族への愛情

 自分が健康で人生を全うすることが、家族への愛情表現である。介護の為にわが子から人生を奪ったら鬼である。鬼にはなりたくはない。佛として成佛したい。佛が無理なら、せめて人間として尊厳ある死を選びたい。それが死生観である。

 この世で一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つ事である。

寂しいことは、仕事のないことである。       福沢諭吉翁の訓言

 

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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