法要では僧侶は必ず読経である。たとえそれを暗唱できても、僧侶は、目の前に経典を置いて、読経として「お経」を「読んで」いる。暗唱ではない。
お経を読んでいると、一字一字が目に焼き付いてくる。声で心に響いてくる。読経の目的は、自分自身への説法である。自分が仏として、お経に書いてあることを一心同体で実現するための教えとして読む。現世で己が佛となり(成仏)、世の中に利他の心で奉仕をするためである。それが読経の目的である。それが暗唱では、その力が弱いのだ。
偲ぶ会で般若心経を暗唱に絶句
ある人の偲ぶ会で、ある弟子が師の思い出を語ったが、その冒頭で般若心経を暗唱した。その時間が、約3分間も要した。多くの人が時間を無駄にした。私は偲ぶ会にふさわしくないと違和感を覚えた。なにか般若心経の暗唱を自慢しているかのようにも思えた。
偲ぶ会に参列した人は、僧侶でない素人からの般若心経の暗唱など聞きたくはない。僧侶は修行をして得度をしている。その僧侶の暗唱ならまだしもである。その僧侶でもお墓等の場所以外では、お経の暗唱などはしない。偲ぶ会では、葬式ではないので読経はやらない。ましてや般若心経の暗唱などもってのほか。それよりも、偲ぶ会なのだから、その時間を参加者のために師の想い出話に充てて欲しかった。
写経
読経より良いのは、写経である。一字一字を丁寧に書いていると、その意味や響きが心に響く。それが故人への一番の供養となる。
命を頂く
我々が日常的に仕事や個人的に面会の約束を取り付け、面談する相手とは、仏さまである。一期一会で会う仏さまである。もう二度と会えないかもしれない仏様である。その佛様のような相手と面談するとは、相手から有限の時間(命)を私のために頂くのだ。だからその佛様とは、心して向き合うべきだ。それをスマホの画面に気を取られて会話をするから、ご縁が結ばない。面談中にスマホをいじる人は、面談者のお話し(お経)を読んでいないのだ。それは相手との会話を上の空で、暗唱しているようなものだ。暗唱なら上の空でも唱えることが出来る。相手の言うことを一言一言、読まねば、心は読めない。そういう人では、幸せを掴めまい。私は、面談中に私の目の前でスマホをいじる人とは一線を引いている。
芸術と仏道
演奏会の公式ピアノ演奏では、必ず暗譜である。私は河村義子先生からそう指導を受けた。その書かれた楽譜(お経)を頭に叩き込み、自分の解釈を盛り込んで演奏する。楽譜を見ながら演奏しては、楽譜に振り回された顛末となり、芸術の演奏ではなくなるからだ。だから芸術に教科書はない。
「芸術」の「芸」の字は、草冠(匂い草)に、「云(立ち上る)」で構成された会意象形文字である。匂いは時代や環境、人によってその評価が変わる。だからこそ芸術である。
お経を読むとは、宗派を開かれた導師の教えを忠実に従う事である。時代が変わっても真理は変わらず、一つである。その道から外れれば、外道である。しかし芸道は解釈が無限にある。それが仏道と芸道の違いである。
自分が今、創っているものが、芸術品か規格品(真理)かを考えよう。
2021-08-20 久志能幾研究所通信 2126 小田泰仙
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