「母の死」 その教えの自戒と自壊

 

10年前の自戒(2010年)

 私は母を42歳のときになくした。享年69歳、平均寿命からいえば早すぎる死であった。母は太っていて、私が健康上から、もっと痩せろと口すっぱく言っても、母は「食べたいものを食べずに、長生きなどしたくない」と聞く耳を貸さなかった。

 

 結果的に肥満からくる高血圧で、脳内出血で倒れ、その一年後、脳梗塞になり亡くなった。

 1992年のお盆に大垣市民病院に入院して、そのまま意識が薄れて行き、亡くなる前の5ヶ月間は、食物人間状態で、12月初に眠るがごとく逝ってしまった。

 この間、私は就業後の深夜、刈谷から大垣市民病院まで(80kmの距離)車を飛ばして通ったのだが、意識のない母を見舞うほど、辛く情けないことはない。面会しても意識のない母の顔を見るだけ。全く反応がない。看護していた父はもっと辛かったろうと今にして思う。こんな見舞い甲斐のない、辛い見舞いはない。見舞いに行っても母の反応があれば、まだ慰めがあるのだが、全く反応のない母の顔を見るのは辛いものでした。そんな姿を家族には見せてはならないとの教えであった。

 

 親としての健康管理は家族・子供に対する責務である。特に肥満は発病の大きな原因の一つで、突然死や脳溢血の発生率が数倍に跳ね上がる。だから肥満の解消と健康管理は、親としての責務なのだ。

 親の早死にほど、子供にとって不幸なことはない。還暦を過ぎて、両親が健在の友人をみると羨ましくなる。親として子供がかわいければ、自分が健康管理をして、長生きしてあげるのが、最大の「孝行」である(「孝」の字は、大人を意味する「老」と「子」から構成されている)。子供に残して喜ばれるのは、財産よりも親の健康と長生きである。親を失って初めて、また還暦の歳を迎えてその価値がわかる。でも、その時には遅いのだ。(2010年12月9日 記)

 

現在の自壊(2021年)

 母の死から約20年経って私が定年退職になった。それから多くの病気が噴き出して対応に追われた。加齢により免疫力も低下して、体の各所が壊れてきたのだ。その真因を探ると、全て己の食生活、生活習慣の悪さがなせることだった。

 今、母の歳まで生きて、多くの気付きを得た。何とか母親の歳以上に生き長らえられたのを喜ぼう。5年前の中学校の同窓会では、同じクラス仲間が20%も亡くなっているのを知らされ愕然とした。明日は我が身なのだ。

 

母の教え

 母の死の教えは、「あんたも何時かは病気になって死ぬのだよ。私の死に方を見て、生活せよ」であったようだ。子供は親と同じような生活習慣で生きている。同じような病気になって死ぬのも当たり前である。

 母の死は、生活習慣、食生活の間違いを明確に教えてくれていた。幸い、意識して危機管理として健康管理をしてきたので、大事に至らなかったが、加齢で体力が落ち(免疫力の低下)、病気が表面化した。会社勤めの激務で、その対策が十分ではなかったようだ。母の死がなく、無為に健康に無頓着に過ごしていれば、今頃、死んでいたと思う。

 その対策は不十分であったことを、定年後に思い知った。長年の狂った生活の咎は10年後にくる。定年後7年が経ってやっと病気頻発の真因が見つかり、それから対策を打って現在、4年目でやっとその効果が出て生きたところである。

 

真因

 その原因は、狂った食生活、狂った生活習慣による血管の劣化であった。それが原因で、血管内部にプラークが溜まり、それが原因で各種の病気を起こしていた。高血圧になり、白内障になり、網膜静脈閉塞症になり、癌になり、もう少しで脳梗塞、心筋梗塞で死ぬ寸前であった。幸い、久留米の真島消化器クリニックの真島先生の診察で真因が見つかり、食事療法指導で、快方に向かっている。

 何ごとも元を絶たなきゃダメなのよ。それが分かるまでに長い年月を要した。人は愚かな存在だと、つくづくと思い知った。

 

エピソード

 知人の奥さんが、私の見立てでは、まさに血管内プラークが溜まり、怖ろしい病気になる寸前であると推察した。それで久留米の真島消化器クリニックに行くことを助言した。しかし忙しいとかで、半年たっても検査に行ってくれない。人は痛い目に会わないと、足が動かないようだ。私の母はそれで命を落とした。

 それが人の習性だ。多くの人は、私だけは大丈夫と思っている。検査を受けるのも、子供の為と思えば動けるはず。病院に行く意味を考えよう。健康で長生きすれば、子供が喜ぶのだ。それが親の生きる功徳である。健康に長生きして、一人でも喜んでくれる人がいるだけ、生きる価値がある。

 

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 馬場恵峰書 2006年

2021-08-21   久志能幾研究所通信 2127  小田泰仙

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