悪縁が人生を狂わせる
朱に交われば赤くなる。悪縁を断つべし。
良き師につけば、薫習でよき習慣が身につく。習慣は第二の性格である。
悪縁の中にあっても、泥沼の蓮のような存在をめざせ。
高貴な蓮の花は、泥沼で清らかな花を咲かす。
だからお釈迦様は蓮の花の上に乗っておられる。
それに対してワサビは清流の中でしか咲かない。
人間はワサビの人生であってはならない。
人間は清濁があってこそ、人間である。
利己主義は畜生界への道
利己を捨て、利他で生きよ。死ぬ時は、何も持って逝けない。
人生では与えたものが、倍返しで返ってくる。時として時間を置いて、子孫に返ってくる。それでよいではないか。
死とは人生で最大のプロジェクト
人は裸で生まれて、裸で死んでいく。人は必ず死ぬ。人は必ず老いる。
いくら金があっても、体力的に使えない時がくる。
私もがんの手術をしてから、金があっても沢山食べられないし、旅行したくても動けないし、モノも買えない。モノを買うにも体力がいる。神仏にすがるにも体力がいる。死んでもいいから健康が大事である。死ぬにも体力、気力、知力が必要だ。死とは人生で最大のプロジェクトである。立派に死にたい。認知症で死にたくはない。
責任をもって使え
それを前提に稼いだ金は、責任をもって使いきって死ね(生きよ)。老後のために爪に火を点す生活は愚かである。そんな人に老後はやって来ない。直ぐ病気で死んで、残った金を遺族が散財する。
お金はお足なのだ。足止めすると、お足に復讐される。
人生はバイキング料理店
バイキング料理店では、食べても食べなくても料金は同じである。人生もまたバイキング料理店と同じで、やっても、やらなくて、時間は同じように過ぎていく。その終着点は死である。
人生の取り皿に入れた物件で稼ぎ、その稼いだ金を使わないと、何のために時間(命)をかけて稼いだか無意味になる。死後、無駄飯食いの役人が、税金として没収して無駄遣いしてしまう。それでは自分の人生が徒労になる。稼いだカネを使わないなら、人生で無駄な時間を使ったのだ。その時間を使ってもっと楽しめたはず。
高級レストラン
若い時は体力に任せてバイキング料理店でもよいが、熟年ともなれば、高級レストランを目指して、自分の品格を研ぎ澄ますべきだ。オリンピック選手でもないのだから、体力ではなく、人は人格で勝負をするべきだ。その人格以上の人生は作れない。人格を高めれば、お金は自ずと寄ってくる。
金を稼ぐのは簡単
金を稼ぐのは簡単だ。真剣に仕事に精力をかければ、大抵成功する。しかし稼いだ金を有意義に使うのが難しい。下手に金を残すと子孫が不幸になる。
稼いだ金が少なかったら、真剣さが足りなかったのだ。今にして、今までの真剣さが足りないと自覚するなら、今から真剣になればよい。人生で決断が遅すぎることはない。死ぬ1日前でも、心を変えれば、1日の進歩がある。
人は集めた金ではなく、使ったもので評価される。天界に行く人と、地獄界、畜生界に行く人の差は、カネの使い方である。人間と生まれたのなら、天界を目指せ。畜生界に堕ちてはならない。
今の世界の混乱はグローバル経済主義が放つ利己主義・拝金主義が原因で畜生界のような様になっている。グローバル経済主義が進展して、人間の格もその格差が拡大している。
身に付いた業を消すには、悪縁を断ち、利他で生きよ
人生の最終目的は、佛になること。
人間は神を目指してはならない。神とは完全無欠な存在。
神は人ではないので、「ひと で なし」である。
だから人は神を目指してはならない。
佛とは、人間味溢れた「ほとけさま」のこと。
煩悩を消す必要はないが、少なくせよ
生物として、生きたいという欲まで消せば、殺されてしまう。
欲があってこそ、人間である。レベルの高い欲を持て。
色欲まで消せば、人という種が滅んでしまう。色も必要だ。
程よい色欲で、こんがりと人生を焦がせ。
積善の家には必ず余慶あり
積善は、子孫のためにすること。自分がその恩恵を受けようと思っては罰が当たる。ご先祖の積善があって、今の自分がある。徳の循環である。
自分が孤児であったら、今の(昔の人の生活に比べれば)贅沢な生活はできていないはず。両親、ご先祖に感謝である。
馬場恵峰書
2021-06-14 久志能幾研究所通信 2059 小田泰仙
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