「修証義」からの学び

 

 「修証義」は道元禅師が書かれた経である。現在でも通用する最高の哲学書でもある。私はこの20年来、毎朝、この経を仏前で読んでいるが、毎朝新たな発見がある。般若心経や観音経のように、難解な漢文ではなく、日本語の日常語で書かれているので読めば意味は直ぐ分かる。しかしその簡潔な表現が奥深いのに気がつくのには長い年月を要した。それは自分の人生での日々の経験が、修証義に照らされて人生を考える杖となったからだ。

 

基本の教え

 その教えの基本は「仏となるための教え」である。つまり、仏さまと等しいさとりを得て、仏となるための教えである。さとり(菩提・阿耨多羅三藐三菩提、この上なき正しいさとり)を求める心が、「菩提心」である。

 この「菩提心」を発すことは、「自未得度先度の心を発すべし」と述べられている。まず、自分のことを考えるのではなく、自分よりも他人を救いたいという心を起こすべきと説かれている。さとり、救いを求めようとする心を意味した「菩提心」は、「自未得度先度の心」へと高められている。この生き方は、「自分本位の心を捨て、世のため人のため、すべてのもののために尽くす」である。

 下記の言葉は自分の身を振り返り、身につまされる。真理は800年の昔と何も変わらない。当たり前を当たり前に記述したのが経である。

 

命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに証跡なし

 これは古希を迎え、自分と仲間の老いを自覚せねば悟れない心境である。

 

無常忽ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝たすくる無し、只独り黄泉に趣くのみなり、己に随い往くは只是れ善悪業等のみなり

 死に際しては、どんなに金を積もうとも、無駄である。何も持ってあの世に行けない。人は必ず死ぬ。死ぬ体を抱えて、どういう生き方をするかが問われる。その老いた醜い病身は、自分の悪業が作った。

 

自他は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざるは同時なり、是故に能く水聚りて海となるなり。

 全て受け入れるから佛になれる。清濁併せ呑むから佛になれる。

 

添付の書は馬場恵峰先生の書。2002年3月。  日中文化資料館 蔵

 

2021-08-02   久志能幾研究所通信 2108  小田泰仙

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