人はなぜ死鬼衆になれるのか
戦争末期の昭和20年夏、大垣に原子爆弾の模擬爆弾が、訓練爆撃として投下され、10名が爆死した。米軍はこの種の練習を全国各地で約50回繰り返した。広島と長崎への原爆投下を失敗しないための爆撃練習である。実際の原爆投下では、ピンポント爆撃の低空からの投下なので、原爆の爆風で投下したB29自体が破壊されてしまわないように、爆弾投下後に急速に回避行動を取る必要がある。そのための約50回の練習であった。あくまで原爆投下のB29の搭乗員を守るためである。
結果として原爆を投下したB29の搭乗員7名の命は守られたが、爆心地では10万人の地獄が生まれた。残酷な皮肉である。米国は単に、原爆が完成したからと、急いで原爆を落としたのではない。用意周到なるジェノサイドの計画があったのだ。
米軍は、それも2種類の原爆の完成を待って、それぞれ種類の原爆の「実験結果」を確かめるために、広島と長崎に投下された。米エネルギー省の出版物中では、広島と長崎への原爆投下は「爆発実験」の項に分類されている。おぞましい仕業である。人はなぞそこまで死鬼衆になれるのだろうか。
大垣の原爆投下練習
昭和20年7月24日、米軍が広島に原爆を落とす前、原爆投下の訓練のため、大垣市の県農業会大安支所に模擬原子爆弾を投下した。建屋は一瞬に吹っ飛び、職員は肉飛び骨散して10名が悲惨な最期を遂げた。
その慰霊碑の真横に、私の母校の発祥地の碑が建っている。因縁である。模擬原子爆弾は、広島と長崎への原爆投下訓練のため、米軍が作った重量4.5トンの爆弾で、長崎に投下されたプルトニウム原爆と同形で“パンプキン爆弾”である。
昭和20年7月20日~8月14日の間、全国各地に約50発が投下され、400人以上が犠牲になった。平成3年、愛知県の市民グループが、機密解除された米軍資料からこの事実を発見した。
水門川を挟んで敬教堂跡に孔子像が建つ
母校発祥の地跡に建つ被爆地の跡の碑
2021-08-15 久志能幾研究所通信 2120 小田泰仙
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