藁人形には五寸釘を打たない

 私は万物には精霊が宿っていると信じている。だから私は藁人形には五寸釘を打たない。人を恨めば、倍返しでその咎を受けるだろうと思う。そんな暇があったら、私は反省と学ぶことに時間をかける。人を恨まねばならないような仕打ちをする輩とご縁があったら、その人の分析をして、二度とそういうレベルの人とご縁がないように自己防衛をしている。その人は、悪縁の実相を教えてくれたのだ。そんな悪縁の人と付き合っていると、もっと大事な人とのご縁にかける時間が無くなってしまう。人生時間は有限である。人生二度なしである。私は、五寸釘よりも、ペンの力が大きいと信じて行動している。

 

精神教育

 現代日本社会で、心に病を持つ人が激増したのは、人の心を大事にするよりも、拝金主義・物質主義・刹那主義・利己優先主義が横行して、人の心を傷つけることが平気になったためである。日本の心教育の再建が必用である。

 親が仏壇の前で手を合わせないから、子供が手を合わさず、親が後ろ姿で子供を教えないから、子が目に見えないものに畏敬を覚えなくなる。仏壇のない家の子が不良になる確率は、仏壇・神棚のある家の子よりも大きいという。

 

己が神仏

 元京大総長の平澤興氏は、弟子が仕事で悩んで相談に来た時、「全力を尽くすのは当然だが、さらに神仏に祈ったか?」と問うたという。祈りとは、冷静に自分を見直す機会である。神仏の前で手を合わせて、傲慢になる人はいない。神仏の前では、人は謙虚に冷静になる。そこで自分と冷静に対峙できる。そこに神仏の加護がある。神仏は己の魂に籠る。己こそが神仏である。己が運命を切り開くのだ。神仏は見守っているだけである。

 

モノには精霊が籠っている

 モノには精霊が宿っているので、使われないと悲しむと思う。モノにはこの世のお役目がある。それが使われずに死蔵されと、そのモノに哀れを感じる。そう言っても、現在、私の家で使われず死蔵されている品数が死屍累々である。その多さを見ると、慙愧に堪えない。日々反省である。

 もっと大事なことは、自分の中で、使われずに死蔵されている才能である。出来ないのではなく、使って見なかっただけなのだ。だから何でも挑戦すべきだと思い、毎日新しいことに挑戦している。そこに日々新しい発見がある。

 

心の保護膜

 人の体は、鉄面皮のような面の皮、心臓の剛毛と頭蓋骨でその体を守っている(私の面の皮は薄い?)。しかし仏様も人間創造時の設計ミスで、心に保護膜を付けることをお忘れになった。そのため、たった一言で人の心は大きく傷つけられる。たった一言で勇気付けられる。私は、人間を含めた万物に宿る精霊、心魂は存在すると信じて日々暮らしている。だから口頭での言葉には細心の注意をしている。

 

家の精霊

 今まで、私は大学卒業後、就職で愛知県に移り、計6軒の借家に住んだが、その間、釘一本打ったことがない。釘を柱に打てば、家の木が痛みを感じて悲しむと思うからだ。ご縁があって住まわせてもらっている家で、家の精霊に申し訳ないと思うからだ。その借家で以前に住んでいた人が打ち込んだ多くの釘を見ると、五寸釘が打ち込まれたのを見るようで、その家に住む精霊が不憫になる。

 今は、月に一度、土地の氏神様に、お酒で清めて塩を撒いて、手を合わせて感謝をしている。土地にも精霊が住んでいると信じているからだ。お陰で無事に暮らさせていただいている。

 

命を繋ぐ

 昭和9年から始まった法隆寺の昭和大修理で、「鬼」と称された宮大工の西岡常一は、その修理方法を御用学者が鉄の補強をして木にボルト締めすべきとの提案を強固に反対してそれを阻止した「そんなことをすれば、木が泣きよります」と言って反対した。そこの西洋文化とは一線を画する考えがある。万物に神が宿るとした日本人の職人の心がある。木の精霊を信じる職人がいる。それでこそ千年先に命を繋ぐ仕事が生まれる。

 

自宅リフォーム

 現在、住んでいる自宅も、50年前に両親が苦労をして建てた家なので、10年前から7年がかりでリフォームした。本来、リフォームせず建て替えた方が安かったが、新築とほぼ同じ金額をかけてリフォームをした。両親の想い出と魂が籠っていると思ったからだ。だから私は家の精霊に気を使って、家の柱に釘一本打っていない。両親が建てた家に釘を打つのは、なにか気が引けた。

 だから書画を飾るための釘は、全て大工さんにピクチャーレールを取り付けてもらって対応した。それ以外は締め付けネジのついたフックや、万力等で固定をして家に傷をつけないように、大事に使っている。そういう心配りだから、2002年の燐家の火事の際、もう寸前で延焼しそうになったが、仏様・精霊さんのご加護で延焼にならずに済んだと信じている。家の精霊に感謝である。

 

大垣行政の愚行

 私は理科系、技術者でバリバリの科学技術信奉者である。しかし神仏は信じている。だから神仏をないがしろにする大垣市長の小川敏には怒り心頭である。小川敏は神仏の前で真剣に祈ったことはないだろう。真剣に大垣市民のために祈り、真剣に己れの行動に対峙すれば、今までの愚行は行えないはずだ。大垣が没落することもなかっただろう。政治は結果が全てである。

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   馬場恵峰書

 

2020-01-28 久志能幾研究所通信 1464  小田泰仙

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