お金は単なる数値の羅列でしかない。独居老人が亡くなって、床下から数千万円の札束が出てきたという新聞記事を良く見かける。お金の真の意味を理解していない人は多い。お金は使ってこそ価値が出る。お金は道具でしかない。その道具のために、働くのはお金の奴隷となること。手段と目的を取り違えるから起こる間違いである。下手にお金を後進に残すと、財産争いが起こる。働く意味を理解できないと、10年後に子孫を醜い相続争いで不幸にすることになる。それはお金からの復讐である。
必要以上に金があると、使うのに労力がかかり、死んでしまうくらい疲れる。毎日10万円の食事をすれば、病気になるのは必然。旅行をすれば疲労困憊で、死んでしまう。人は食べて1升、飲んで一升、寝て畳1畳である。金を使うのも大変だ。だれかのように数百億円も貯めても、まともには使えない。
死ぬときに、預金通帳の残高が100万円多いか少ないかなどは、何も持たずあの世に旅立つ身には、煩わしい雑事である。人生では小さな問題である。
「人生で生きていくのに必要なのは、勇気とsome moneyである。」(チャップリンの言葉)
稼ぐ能力
人生で必要なのはお金ではなく、お金を稼ぐ能力と使う才覚である。両方が身に付けば、お金のほうから擦り寄ってくる。お金も人間が作り出した人の子である。お金にも魂があり、現金なものである。お金は経済状況が変われば消えてしまうことがある。しかし身につけたお金を稼ぐ能力は、どんな経済状況になっても消えない。その能力がお金に勝る財産である。
母方の祖父は、銀行に預けた虎の子の退職金が、戦後の新円切替(1946年2月16日)で、紙くず同然となった惨めな体験をした。私の生まれる4年前のことである。母がその話を何回もしてくれた。その時期、母と結婚前の父は、シベリア抑留の身であったが、洋裁の才能という芸があったので生きて帰国できた。
Wikipedia 2014/9/19より
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お金は道具であるから、悪縁を切るための道具として使えばよい。札束で相手の頬をひっぱ叩いてやれば、道具としてのお金の価値が出る。悪縁の人に金を貢いで金を浪費させられても、それを縁切り金と思えば、安いもの。それで今後、自分の大事な時間を邪魔されない体制がとれえるのだ。それで相手が目を覚せば救いがあるのだが、縁なき衆生度し難し、で目を覚ましてくれないのが現実である。
金は道具
仕事は「使命感」をもって取り組むもの。しかし、「使金感」をもって生きるとは言わない。言うのは「資金力」であり、お金が道具、手段であることは明白である。そのお金を人生の目的にするから、にわか成金が晩年を汚すのである。
ご縁の貯金
お金も大事に扱ってあげて、心を込めて旅出せてあげれば、お金がお友達をつれて帰ってきてくれる。お金を貯めるばかりで、使わないから幸せになれない。可愛い子(お金)には旅をさせよ、である。
人生はお金ではないのだ。お金より大事なのが、どんな時代でも生きていける知恵と稼ぐ能力である。貯めるべきは智慧とご縁である。
馬場恵峰書 2014年
『命の器で創る夢の道』p33より
2019-02-28 久志能幾研究所 小田泰仙
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