佛様との出会い

両界曼荼羅

 人生の短い期間に出会う佛様(人)の数は限られている。両界曼荼羅では1,875尊の佛様が描かれている。それは人生で価値ある人との出会いが、物理的に2千名程度しかないとの寓意である。

 その佛様には、人だけの出会いだけでなく、病気とか事故、自然災害も含まれる。病気や事故が、その後の人生の生き方に大きな影響を与えれば、それも人生で出会う佛様である。その人からの学びには、正の場合も負の場合もあるが、それは自分の成長次第である。

 逆縁の菩薩様からも多くの学びがある。佛様が差配した慈しみの出会いである。その出会いはすべて己の責任である。そういう縁に出会うべき業をしてきた。因果応報である。この世で起きることは、全て必然である。会えば必ず別れがある。生まれれば、必ず死がある。

 

選択

 人の寿命の制限内で、出会う佛様の数には限りがある。一尊の佛様との出逢いがあれば、もう一尊の佛様とのご縁は、この世ではかなわない。選択とは一方を選べば、もう一方は捨てること。その両方を選ぶから曖昧さを生み、人生の無駄時間を生む。人生では寿命の制限があるからこそ、その出会いに緊張感が生まれる。「人は必ず死ぬ」との大前提に考えないから、時間と機会を無駄にする。

 

ご縁

 ご縁を成就するためには、時間と労力と情熱が必要である。身を清め、服相を正し、心を整えて、時間を計って、初めて一つのご縁が生まれる。それでこそ出会うべき人に、早からず、遅からず出会える。その心掛けがないから、ご縁を見逃すのだ、そのご縁が佛様である。だからこそ、出会う人、出合う機会を自分の目で厳選しないと、自分の人生価値が希釈化される。それが選択であり、決断である。縁あって花開き、恩あって実を結ぶ。

 

与える価値

 己が相手に与える価値は何か。自分が会うことで、相手の二度と戻らぬ命(時間)を奪ってはいないだろうか、自分は相手が期待している成長をしているだろうか。去っていった佛は、自分の未熟さに呆れて、去っていったのではないか。佛が袂を分かち去って行ったのは、全て己の責任である。人生では与えたことだけが、返ってくる。奪ったことは消えていく。

 

全て己の責任

 郵便ポストが赤いのも、全て己の責任である。己があの時、遊び惚けず、もっと真剣に受験勉強をしていれば、東大に入り高級官僚になり郵政次官、郵政大臣に就き、郵便ポストの色を己の意思で変えられたはずと思いたい。

 

曼荼羅とは

 曼荼羅は、胎蔵界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅からなる。弘法大師が唐より持ち帰った曼荼羅を、弘法大師が晩年、金銀の単色で描いた曼荼羅は、高野山の至宝である。

 胎蔵界曼荼羅は、世の仕組みを俯瞰的に表現している。金剛界曼荼羅は、生から死に至るまで、人が佛として9つの段階を経て成仏する精神面の変遷を描いている。人が各段階の世界で精神的な修行を積み、佛となり次の世界に進む。人がその界を卒業して成仏する過程を表す。決められたステップを踏まないと次に界に行けない。

 サラリーマンに例えれば、受験地獄と大学天国を通過し、新入社員として修行の界に入り、実践の場に進み熟練の領域に進む。現場実習界、職場研修界、営業界、中堅の世界、課長職界、企画界、経営者界、窓際族の界等で、その界の修行が不十分のまま、次の界に進むとその界では浮いた存在となる。何事も順序を踏んで進まないと成仏は出来ない。みほとけに一歩でも近い界に行くことが出世である。

曼陀羅の絵は画像検索で確認ください。

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お礼

 お陰様で、今回で1,000回目の通信となりました。累積閲覧総数57,753です(2018年1月9日21時)。皆様の閲覧にお礼を申し上げます。私にとって一つの文書作品は、佛像彫刻作品と同じです。私は文書を書く場合、佛像彫刻を仕上げるように、何度も遂行を繰り返し、磨き上げます。見直した回数が多いほど、よき佛様が出来上がります。文書の題名は、佛像の顔です。トピックセンテンス(格文)は、佛様の眼です。佛様は眼でモノを言われます。佛像を拝むとは、自分を拝み、自分自身に対峙することです。

 私も昔の自身のエッセイを読み直し、襟を正すことが多々あります。私のエッセイが皆様の自他の幸せを考え、人生を考えるヒントになれば幸いです。

 

2019-01-09 久志能幾研究所 小田泰仙

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