削り屑に佛が宿る

 松本明慶先生は弟子たちの仕事場に不在していても、帰って来て弟子の削り屑を観れば弟子の仕事の調子が分かるという。佛像彫刻は荒彫り、中仕上げ彫り、仕上げ彫りを経て完成される。削り屑は段々と細かくなっていく。その日の削り屑の大きさは一定である。ところがその削りくずが一定していないと、中仕上げ中や最終仕上げ中に、荒彫りに戻る修正工程が発生していることになる。きちんと手順が踏まれず、手戻りのロスが発生していることだ。能力不足なのか、先を見極める力が不足していたのかは別として、仕事の手順が悪いことを削りくずが示している。

 

仕事の手順

 どんな仕事でも、例えば私の昔の仕事であった機械設計の場面でも、開発設計の作業で、最初はラフ構想をして、基本構想の設計の足場を固めて、回りの干渉関係をチェックして、その次のステップの詳細設計に進む。その足場がきちんとしていないと、また逆戻りの工程をやり直すこととなる。その隠しようもない仕事ぶりの履歴を上司は見ている。そこに己の仕事のレベルが顕われる。それを見抜けないようでは上司失格である。だから全ての仕事が修行である。見るほうの上司も試されている。

 

文書という私の佛様を創り出す

 私は文章にも佛が宿ると考える。その文章で何を読み手に伝えるか。そこに己の魂が宿る。文書に顔があり、目があり、人を招く手がある。人を救う言霊がある。それこそが佛様としての本性である。

 それを構築するにも、概略構想があり、大筋の文書構成を考え、細部の文章を作り上げる。できた文書に校正・推敲を繰り返して、一字一句を磨き上げる。出来上がった文書が集まって、本となる。その本は生まれた我が子の様で愛おしい。

 

自分という佛様を作り上げる工程

 人生でも若い頃の正しい人格構築の基礎工事が出来ていないと、中年、老年になってから人生の大事なところで躓く例が多い。人生の基礎作りである下積みの仕事での修行をスルーしたエリートたちが、晩年を汚す事件が頻発している。人生に無駄な修行はない。

 人生の三大不幸の一つに、「若くして高台に登る(若くして偉い地位に就く)」がある。

 今の世は成果主義として、やり手の若い経営者を抜擢することが流行している。往々にリーダとして不適な人がトップに任じられ、地位ゆえにその成果を出すため傲慢になり、年功者の助言を聞かず暴走しがちである。それを誰も止められず、そこでその人の成長も止まってしまう。功を焦るため法を無視して金儲けに走り、その結果として企業の不祥事が多発している。

 

年功序列

 企業が金儲け最優先で経営すると、技術の伝承がされず、製造業も衰退してしまう。それが今の米国である。成果主義の弊害でモノづくりの力が落ちた米国を日本は他山の石とせねばならぬ。いくら天才のヤリ手でも、年功で汗と涙で勝ち得た年功者の智慧には、長期戦では負ける。年功序列には、功を焦り、法を犯してまで金儲けしようという考えは生まれにくい。

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  2014年10月8日 松本工房にて

 

2018-05-28

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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