昔は一人一墓であったが、お墓の土地供給の問題もあり、一家で一つのお墓となってきた世である。いわば一戸建てから集合住宅になったようなものと解釈している。それで問題になるのは、誰がそのお墓に入っているかである。前のお墓はそれが曖昧であったので、今回、新しいお墓を建立するので、墓誌も併設することになった。
墓誌
墓誌で色んな書き方があり、戒名、命日、俗名、享年に更に叙勲の有無まで書くような例も見受けられる。当初、父の弟で五男の方が勲八等を叙勲されており、それを記入する方向で話が進んでいた。
しかし、死ねば沸の前では全て平等であり、俗世間の位など何の意味もないのではないかと思い直して、記入は取り止めとした。
また命日もそれを見て喜ぶ人がいるかどうかであり、両親の命日は子供が一番知っている事項である。あえて墓誌に書く必要もなく、個人情報の類であるので、止めることにした。
墓誌での命日
弥勒菩薩は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなると約束された菩薩(修行者)である。弥勒菩薩はゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。弥勒菩薩が来訪するという56億7千万年の尺度からいえば、40年や80年の享年に差があるわけもなく、誤差範囲である。この世に生を受け、しかるべきこの世のお勤めをして旅立った人に、寿命の多少で偉さに差がないと思い、命日を記すのを止めた。結局、戒名と俗名だけを記した墓誌とすることになり、簡潔な美しい墓誌となる。
石田家の墓誌は、石田退三氏の戒名だけで、俗名さえ記されていない。石田退三氏は旧勲一等瑞宝章(瑞宝大綬章)を授与されている。ご遺族が故人の意思を継いで、戒名だけの墓誌を作られた。倒産寸前のトヨタを立て直した大番頭に相応しい墓誌である。
院号
現在、父の五男に当たる小田五郎氏に戒名に院号が付いていないので、今回の墓誌を新設するにあたり、英霊への後供養として院号を付けて頂いた。夫を亡くし二人の子供が戦死をした当時、祖母は院号を付ける経済的余裕がなかったと思わる。当初、祖父小田成健の戒名にも院号がなく、叔父が祖母の亡くなった時に、祖母と一緒に院号を付けてもらった。
戒名とは引導をされる僧侶が弟子にするために授ける名前である。院号とは贈り名とも言われ人の死後にその徳を称えて贈る称号である。業績のある方のためにお寺を建てると同じように、亡くなられた方の心の中にお寺を建て、来世の名前を戒名として授け、佛として修行をしてくださいと供養する意味である。
院号はお金を出せば付けてもらえるものでもなく、相応の功徳ことがないと付けてもらえない。お寺によっては、いくらお金を積んでも付けてもらえない場合がある。
英霊の院号
父の弟の小田五郎氏はビルマで昭和19年に戦死された英霊であり、「戰勲至誠居士」と立派な戒名が付けられている。至誠とは吉田松陰が好んで説いた『孟子』離婁上の言葉である。今回、お寺さんのご意向で、「護國院戰勲至誠居士」との立派な院号を付けていただくご縁を頂いた。
院号についても今ままではあやふやな知識で、今回初めて詳細な知識を得ることが出来た。人生知らないことばかりである。
院号の裏道
格式あるお寺では、その人に徳がないと、カネを積んでも院号は付けてもらないようだ。しかしあるお寺のお墓を拝見した時、殆どの墓に院号が付けられいたのを見て驚いた。要はそのお寺ではカネさえ出せば院号がもらえるお寺であるようだ。
格式あるお寺でも、院号を付けられた人に人徳があったとは思えないのに、院号が付けられている例は多くある。私の推察では、故人の徳ではなく、その故人の葬儀を司った人の徳が高い場合に、院号が付けられるようだ。まあそういう後継者を育てた個人の徳と言ってもよいようだ。徳が高いとは、お寺に貢献した人(寄進を多くした人?)であるようだ。信仰深くなく、お寺にお参りにもあまり来ない人は、親の死後に院号を頼んでも院号は授けてもらえないようだ。お寺さんも良く見ている。お寺さんは仏様の代理人なのだ。
生前に戒名授与
懸念があるなら、自分でお寺さんに御願いして生前戒名を授かることだ。私はがんを患い、退院して落ち着いた後、住職から戒名を授けてもらった。そして墓誌にも戒名を彫った。その彫った字に朱をいれた。まだ私が生きているからだ。
戒名は生前に授かるのが、正式の手順である。亡くなってから葬儀の際に戒名を授かるのは、緊急応急処置である。その場合は、住職さんが家族からその人のことを聞き込んで、名前を付ける。だから生前に本人が住職と打ち合わせをして、最適の名前(戒名)を付けてもらうのが理想である。それで安心して死ねる(?)。
馬場恵峰書
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2022-11-04 久志能幾研究所通信 2532 小田泰仙
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